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誰が将軍を殺したか?〜その2

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前回、江戸時代の最高権力者であった、
征夷大将軍たちの「死」というものについて、見つめてみた。

日本国内における最高権力者である将軍。
望めば、かなわぬことなどほとんど無く、
最高の食べ物を食べ、最高の医療を受けていた彼らが、
はたしてどういう「死」を迎えたのか?ということに注目し、
彼らの来歴、病歴、性格、体格などを考慮しながら、
初代将軍・徳川家康から、一人一人、書き綴ってきた。
その結果、わずか5人の将軍のうちでも、
胃がんで死んだもの、脳卒中で死んだもの、
果ては餅を喉に詰まらせて死んだものまで、様々な死因があった。
今回は前回に続き、6代将軍・徳川家宣から、
その「死」を見つめていきたい。

6代将軍・徳川家宣は、3代家光の孫に当たる人物だ。
5代綱吉に男子がいなかったため、その養子となり、
6代将軍となった。
慈悲深い性格であったが、先代綱吉と違い、武術の再興を図った。
本人も軍船を指揮したり、鷹狩りに勤しんだりしていたようで、
これが適度な運動になっていたのか、極めて健康な人間であった。
先代綱吉は、自分の死後も「生類憐れみの令」を守るようにと、
側近一同に言いつけていたのだが、家宣は綱吉の死後、
側近等を全て入れ替え、「生類憐れみの令」を廃した。
これによって、八千数百人が罪を逃れたというのだから、
「生類憐れみの令」が、どれだけ庶民に
負担をかけていたのかが分かる。
潔癖な性格で、非常に優れた人物であったのだが、
惜しむらくは将軍職についたのが遅く、48歳のことであった。
そんな彼の「死」は、意外と早く訪れる。
将軍になって3年目、彼はインフルエンザにかかり、
あっさりと死んでしまう。
医療技術の発達した現在でも、
インフルエンザでの死者が出ていることを考えると、
江戸時代におけるインフルエンザは、
どれだけ恐ろしいものだったのだろうか。
(もっとも、当時としては
 「ただの風邪」くらいの認識だったのかも知れないが……)
いくら健康な人間であっても、風邪をこじらせるとあっさりと死ぬのが
江戸という時代だったのかも知れない。

父・徳川家宣の急死によって、7代将軍の座についたのが、
彼の息子である徳川家継だ。
将軍職についた際、彼はまだわずか4歳であった。
彼は父親に似ず虚弱体質で、大奥の中で大事に育てられていた。
だが、彼が8歳のとき、夜気にあたって風邪を引いてしまった。
それだけならば、まあ、大したことは無いのだが、
なんといっても落ち着きの無い子供のことである。
病床について、安静にしておくということが出来ず、
医者を悩ませていた。
相手は子供とはいえ、最高権力者である将軍なのである。
誰も彼に安静を強制できなかったのが祟ったのか、
風邪をこじらせて、あっさりと死んでしまう。
体質は父には似ていなかったが、
死因だけは父親に似ているというのは、なんとも皮肉なことだ。
わずか10年もたたないうちに、3人の将軍が死んでいるのだから、
さぞ、世情も不安だったに違いない。

さて、7代・家継がわずか8歳で死んでしまった。
8歳の将軍に、跡継ぎなどいるはずも無い。
急遽、彼の跡を継いだのが、紀州藩主であった徳川吉宗である。
あの「暴れん坊将軍」だ。
30代前半で将軍職を継いだ彼は、およそ30年間将軍職を務め、
その後は息子・家重に将軍職を譲り、大御所となった。
9代・家重は言語不明瞭で、
政務を執れるような状態ではなかったため、
実質的には、吉宗が最高権力者として君臨し続けていた。
(ただ、家重については言語障害はあったが、
 知能は高かったという説もある)
家康と同じように、自ら薬研を用いて薬を調合したり、
牧場を作らせ、チーズ(白牛酪)を食べていたというので、
ある程度は、自分の健康に気を使う人物だったようだ。
高血圧の気があり、63歳のときに脳卒中を引き起こしている。
これにより、身体が不自由になってしまい、
以降はリハビリに勤しんでいたようだが、
68歳のとき、再び脳卒中を起こし、翌月、帰らぬ人となった。
TV時代劇「暴れん坊将軍」では、すらっとしたスタイルの吉宗だが、
実際には当時の男性の平均身長よりも背は低く、
肥満体であったという。

吉宗の跡を継ぎ、9代将軍となったのが、
彼の長男である徳川家重だ。
30歳を過ぎて将軍職についたものの、
実際には先代吉宗が大御所となり、政治的な実権は
そちらにあったようである。
彼は生まれつき脳性麻痺を患っており、手足が不自由であった。
この他にも、両眼には内斜視があり、言語不明瞭で、尿路障害があり、
重度の身体障害者であったようだ。
そんな彼を、悩みつつも9代目に据えた吉宗の判断は、
その善し悪しはともかく、思い切った処置であったことは確かだ。
尿路障害のため、上野寛永寺への参詣の途中に23カ所も
便所を作らせたため、「小便公方」などと悪口を言われた。
さすがにこれを幕府の役人に聞かれれば、極刑は免れないだろうし、
なかなか度胸のある悪口である。
だが、家重にとって、この「小便」というのは
どこまでも不幸を運んでくる。
50歳ごろから持病が悪化し、尿漏れを頻繁に起こすようになり、
やがて尿路感染を引き起こした。
そのまま尿毒症を発症し、これが命取りとなった。
享年51歳。
それでも20年ほど、将軍を務めていたというのは、
驚くべきことかもしれない。

家重の跡を継いで10代将軍となったのが、
彼の息子である徳川家治だ。
彼は律儀な性格で、なおかつ温厚な気質だった。
「養生の基本は平常食にあり。
 山海の珍味に馴染めば、必ず病を招く」と言って、
美食をしなかった。
さらに武術・馬術に励んだため、身体も壮健だった。
実は、これには理由がある。
息子・家重が言語不明瞭で、重度の身体障害を持っていたため、
8代吉宗は、孫である家治の教育に力を入れた。
彼は、自らが亡くなるまで、家治を手塩にかけて教育したのである。
それが実を結んだのか、10代家治は心身ともに非常に健康であったが、
政治的にいえば、老中である田沼意次にこれを一任し、
あまり積極的に関わることは無かったようである。
かつては汚職の代名詞のようにとられていた田沼意次だが、
最近では、彼の行なった各種事業が再評価され、
彼の評価も随分といいものになった。
そういう点を見れば、家治の治世は、
それほど悪いものではなかったのかもしれない。
そんな彼は、皮肉な最期を迎える。
ちょうどこの頃、江戸の食料事情はかなり好転しており、
玄米食はほとんど無くなり、
精白米を食べることが一般的になっていた。
もちろん、これは江戸城内においても同じことである。
精白米を常食するようになり、庶民の食生活からはビタミンが不足し、
脚気患者が多発するようになった。
当時、脚気は江戸で大流行していたため、
「江戸患い」などともいわれたのだが、
なんと将軍家治も、この脚気にかかってしまったのである。
恐らく、健康のために美食を遠ざけ、
庶民のそれに近い、質素な食生活を送っていたのだろうが、
そのため、庶民と同じように脚気を患うこととなった。
ひょっとしたら、山海の珍味を求めていれば、
それによってビタミンを取ることが出来、
これを防げていたかもしれないと考えれば、
皮肉としかいいようの無い、結果である。
結局、この脚気が命取りとなり、家治は命を落とした。
在位26年、享年50。
なんとも惜しまれる最期である。

今回は、6代目から10代目までを取り上げてみた。
次回、今回に続き、11代目以降を取り上げていく。

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