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薩長土『肥』

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少し前だったか、「歴ジョ」という言葉が流行った。

これは「歴史女子」ということらしい。

男性歴史ファンに人気のある時代は、やはり戦国時代だろう。

では、女性の場合は?

「歴ジョ」の場合は、戦国時代も網羅しているそうだが、

「歴ジョ」が流行る前、「歴史好き女性」の場合、幕末に人気があったようだ。

幕末といえば、維新志士、新撰組などが、時代の主役だ。

封建社会から、新たな時代へ生まれ変わろうとする日本の、まさに大激動時代だ。

この時代の転換点に、志士として活躍した者たちは、

後の明治政府において、次々と重要なポストに就いた。

そのため新政府は、維新において活躍した藩によって、

要職を占められてしまうという事態が起こった。

この時、新政府において、要職を独占した4つの藩を、「薩長土肥」と呼んだ。

「薩」は薩摩藩だ。

西郷隆盛、大久保利通など、明治維新のスーパースターがいる。

「長」は長州藩だ。

桂小五郎、高杉晋作、吉田松陰など、やはり大スターがいる。

「土」は土佐藩だ。

坂本龍馬、中岡慎太郎など、ここにも時代の英雄がいる。

「肥」は……。

ん、「肥」?「肥」って、どこだ?

おい、「肥」って、どこから出てきた!?

と、一般人は思うだろう。

実際のところ、上記したような維新スターは「肥」からは出ていない。

よくよく歴史の授業で習ったことを思い出してみても、

いつの間にやら「薩・長・土」に「肥」がくっついていただけだ。

はたしてこの「肥」は、一体どこから出てきて、どういう経緯で

「薩・長・土」に加わったのか?

今回は、この謎に満ちた「肥」について書いていく。

まず、この「肥」とはどこをさしているのか?

これは現在の佐賀県、肥前藩のことだ。

江戸時代260年間を通じて、藩主は鍋島氏がつとめてきた。

あの化け猫騒動で有名な、鍋島氏である。

さらに「葉隠」を書いた山本常朝も、肥前藩の藩士であった。

この肥前藩が、幕末の討幕運動に、ほとんど参加していなかったにも関わらず、

明治維新後の新政府において、薩長土と並び、新政府に人材を送り込めたのは、

ひとえに1人の肥前藩主の手腕による。

その藩主こそ、10代藩主鍋島直正。

鍋島閑叟(かんそう)とも呼ばれる。

直正は1830年、父斉直の後を継ぎ、17歳で藩主になった。

彼は藩主になると同時に、藩政改革に乗り出したが、

旧保守系勢力の力も強く、思うように改革は進まなかった。

だが1835年、この状況をひっくり返す事件が起こる。

それが佐賀城二の丸の大火である。

この時の佐賀城再建をきっかけに、直正は藩政改革を断行していく。

まず役人の数を5分の1に減らす、大リストラを断行し、歳出を減らした。

さらに借金の8割の放棄と、残り2割の50年分割払いを認めさせた。

これにくわえ、磁器、茶、石炭などの産業を育成し、

交易をすることによって、財政を改革した。

さらに人材を育成するための藩校、弘道館を拡充し、

そこから優秀な人材を藩政に参画させた。

ここまでは、各地の藩政改革でも、よく行なわれていたことだ。

鍋島直正の改革には、この時代ならではのものも、含まれていた。

肥前藩は幕府から、貿易港長崎の警備を、福岡藩とともに任ぜられていた。

時代は幕末。

貿易港長崎の警備の強化は急務であったが、財政が逼迫している幕府からは

充分な支援を受けられなかった。

直正は独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、

精錬方をもうけ、反射炉などを藩内に作り上げた。

ここで肥前藩はアームストロング砲などの大砲製造に成功する。

さらに蒸気機関、蒸気船の製造にも成功する。

これだけのことをやれた人間は、この当時、鍋島直正の他には

ただ1人、薩摩藩の島津斉彬だけだった。

つまり、国中が攘夷に湧いていた幕末、

まがりなりにも外国とやり合える可能性があったのは、

肥前藩と薩摩藩だけだったのだ。

ここまでの力を持っていながら、幕末、肥前藩は動かなかった。

国中が、勤王、佐幕、公武合体と激しくぶつかりあっている時に、

まったくどこにも組しなかった。

このため、佐賀討伐の声も上がったが、結局それは行なわれなかった。

この佐賀討伐が行なわれていれば、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の

葉隠武士と、剽悍で知られた薩摩隼人が戦っていたことになる。

まさに命知らずの、九州男児の決戦だ。

肥前藩は、戊辰戦争の趨勢がほぼ決した状況で、薩長土に合流する。

これが認められたのは、何より肥前藩が力を持っていたからだ。

その力は、鍋島直正が必死に藩政を改革し、

外国より最新技術を導入し、人材を育成することによって育まれた。

直正の育成した人材は、その力を明治新政府の中で存分に発揮していく。

副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任、佐野常民。

これらは全て、肥前藩の教育によって育てられた人材達だ。

肥前藩が、薩長土に並ぶ力を持つことができたのは、

ただ1人、鍋島直正の力によるものであった。

もし歴史に興味があるならば、

いつか薩長土肥の言葉を聞くこともあるだろう。

その時、薩長土の後にくっついている

「肥」の1文字にこめられた、一人の肥前藩主の奮闘があったことを

思い出してほしい。

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