雑学、雑感、切れ味鋭く、思いのままに。

Falx blog 2

未分類

書写山

投稿日:

西の比叡山、という言葉がある。

兵庫県姫路市にある、書写山のことだ。

書写山は、姫路市の中心部から、北西に位置している。

なぜ、西の比叡山と呼ばれるのかというと、

この書写山の山頂部分にある、円教寺が関係している。

今回は、この書写山について書いていく。

姫路市で観光名所をあげれば、まず、その第一は姫路城だ。

これは姫路市民なら、誰もが納得するだろう。

では、それ以外の観光名所は?ということになると、

この書写山円教寺ということになる。

この2つが姫路観光の、2大看板だ。

姫路観光に来た人々は、まず、何はなくとも姫路城に向かう。

そして姫路城を堪能した後、書写山へ向かう。

JR姫路駅から姫路城までは、城を正面に見ながら歩いていくこともできるが、

書写山は市の中心部から離れているので、

どうしてもバスかタクシーを使うことになる。

この点が、書写山の辛い所だ。

西の比叡山、と冒頭で書いた。

比叡山は京都市の東、滋賀県との県境に位置する山だ。

標高は848mあり、山頂域には天台宗の総本山、延暦寺がある。

書写山もこれに似ている。

標高は371mで、比叡山の半分以下である。

山頂域には、同じ天台宗の寺院、円教寺がある。

山のスケールが比叡山に比べるとかなり小さいが、

同じように円教寺の規模も、延暦寺に比べるとややスケールダウンしている。

そういう意味で、ミニ比叡山という表現をしてもいいと思う。

比叡山には山頂まで登ることができる、比叡山ドライブウェーがあるが、

書写山には車で上ることはできない。

書写山に登るためには、参道を歩いて登るか、ロープウェーを使うしかない。

ロープウェーが設置されている所は、比叡山と同じだ。

比叡山では観光目的の人の場合、バスかロープウェーを使うことになるが、

書写山では、観光客も何割かは参道を登っていく。

それほど標高のある山ではないので、1時間足らずで登ることができる。

参道は整備されているが、場所によっては岩場がむき出しで、

履物によっては、かなり歩きにくい。

参道を登り終えると、ちょうどロープウェーの山上駅につく。

ここから、登山客も観光客も、同じ参道を歩いていくことになる。

すぐに入場口があり、ここで拝観料を支払うことになる。

ここから先が、書写山円教寺の寺内ということだ。

もともと書写山は、スサノオが山頂に降り立ったという伝説があり、

「素盞ノ杣」と呼ばれていた。

康保3年(966年)、九州で修行をつんだ性空上人が、

この山の上に紫の雲がたつのをみて、そこに庵を結んだ。

これが円教寺の始まりであるといわれる。

性空上人は俗事を嫌い、栄華や名声に興味を示さなかったが、

それが逆に、都の皇族や貴族の尊崇を集めることになった。

花山法皇をはじめ、後白河天皇、後醍醐天皇などが行幸している。

また和泉式部が、性空上人に面会を求めたが拒絶され、

その際に歌を詠み、それに上人が感心して面会したという逸話も残っている。

円教寺の代表的な建造物、如意輪堂(現・摩尼殿)が建造されたのが、

開山からわずか4年後の970年、

986年には、花山法皇から100石の寄進を受け、これをもとに大講堂を

建造している。

性空上人は寛弘4年(1007年)に亡くなっているので、

彼が存命のうちに、ある程度、寺域の整備は進んだようだ。

書写山、という名前にはいくつか由来がある。

ひとつは、仏様がインドの山の土を一握りして、この地に落とした。

それが元の山の形に似ているので、書き写したようだということで、

「書写山」になったという説。

ふたつめは、山で修行していた僧たちが、一生懸命にお経の本を、

書き写していたことから

「書写山」になったという説である。

みっつめ、もともとの名前、「素盞ノ杣」から「素盞」の「すさ」が

「書写」に転じた、という説である。

最初の説は、絵で書き写したという意味だろうから、

正確には描き写す、とするのが正しいはずである。

となると、「書写山」ではなく「描写山」にならないとおかしい。

当時の日本に、元となったインドの山の形を知っている人間が、

いたとは思えない。

第2の説と、第3の説についてはどちらも、あえて否定するだけの材料がない。

第2の説だが、九州での修行を終えた性空が、

お経を充分に所持していたとは思えず、それを補うために天台宗の総本山である

延暦寺から借り受け、それを書き写したとも考えられる。

もともと天台宗には、最澄が唐より持ち帰った大量の経典が存在しており、

これにより総本山である延暦寺は、仏教の総合大学と言える性格を持っていた。

だからこそ、この延暦寺から様々な宗派が生まれたわけだが、

性空上人が西の比叡山を作ろうとしたのなら、

この延暦寺の所有している経典を、書き写すことは、

絶対条件だったのではないだろうか?

そういう条件があったとすれば、第2の説には説得力がある。

開山の祖、性空上人と和泉式部の逸話は有名であるが、

その他に武蔵坊弁慶の伝説も残っている。

まず、比叡山にて修行をしていた弁慶は、乱暴が過ぎてここを追放される。

この後、四国を経て、書写山円教寺に潜り込む。

ところがここでも、乱暴な性格はなおらなかったようだ。

昼寝をしていた所、先輩僧に顔に落書きされ、それに激怒した弁慶は大暴れし、

その結果、円教寺を焼いてしまう。

この後、彼は円教寺を飛び出し、京都にて牛若丸と出会うのである。

このとき、弁慶が顔の落書きを確かめたという井戸が残っている。

現在、書写山円教寺は国指定の史跡となっている。

この書写山円教寺の歴史は、姫路城の歴史よりも、はるかに長い。

実際の所、倍くらいには長い。

面白い、といっては不謹慎だが、この円教寺、何回か燃えている。

先に書いた、弁慶の火事もそのうちのひとつである。

もともと戦争用の軍事拠点として作られた、姫路城は一度も燃えたことはなく、

戦争とは無縁のはずだった、宗教施設円教寺は火災に見舞われている。

不思議な因縁とでもいえるか。

姫路市の北西に位置するこの書写山円教寺は、まだ姫路城も存在しない、

はるか昔から、姫路の町を見続けてきた。

まさに姫路の町の生き証人である。

これからも、末永く、無事に姫路の町を見続けてほしいものだ。

Related Articles:

にほんブログ村 その他生活ブログ 雑学・豆知識へ
にほんブログ村

スポンサーリンク
スポンサーリンク

-未分類

Copyright© Falx blog 2 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.