雑学、雑感、切れ味鋭く、思いのままに。

Falx blog 2

乗り物 歴史 雑感、考察

記憶に残る「船」〜タイタニック号

投稿日:

今回、紹介する「船」は、
世界で一番有名な「船」だといっても、過言ではない。

「タイタニック号」。
おおよそ、「船」に興味の無い人間でも、
この名前を知らない人というのは、いないのではないだろうか?
1912年4月14日、当時、世界最大だったこの豪華客船は、
ニューファウンドランド島南東の沖合600kmの地点にて氷山と接触、
わずか3時間ほどで沈没してしまった。
この沈没事故による死者は1513名。
当時としては、史上最大規模の海難事故であった。
この辺りのことに関しては、
以前書いた「海難」の記事を読んでもらえば詳しいのだが、
「記憶に残る船」と題した今回でも、
やはりこの船について、取り上げないわけにはいかないだろう。

沈んだことによって、一躍、有名になったこの船だが、
実はこの「タイタニック号」、沈む以外のことは何もしていない。
当時のドル箱航路であった、大西洋横断のための
豪華大型客船として作られた「タイタニック号」であったが、
その処女航海の途中でこの事故を引き起こして沈んだため、
商業的には全く、何の実績も上げないままであった。

映画などで「タイタニック号」を取り上げる場合、
その肩書きとして「世界最大の豪華客船」とつけられるため、
この「タイタニック号」は、世界でただ1台だけの
特別な船の様に錯覚してしまうのだが、
実は、この「タイタニック号」は、
「オリンピック」級と呼ばれる船の2番船であり、
同型1番船(ネームシップ)の「オリンピック」と、
同型3番船の「ブリタニック」が存在している。
これらの船を所有していた、ホワイトスター・ライン社は、
この3隻のうち2隻を交替で大西洋航路に就航させ、
残りの1隻を予備とするつもりだったようである。
当時、「世界最大の豪華客船」として注目を浴びていたのは、
「タイタニック」よりも先立って就航していた「オリンピック」であり、
これとほぼ同型船である「タイタニック」は、
「オリンピック」の陰に隠れた存在であった。
(この点、戦艦武蔵が、戦艦大和ほど注目されていないのと
 よく似ている)
「タイタニック」が「オリンピック」を超えて有名になるのは、
当時としては史上最大の海難事故を起こしたためである。
姉船である「オリンピック」は、
後の第1次世界大戦において輸送船として徴用されるが、
無事戦火をくぐり抜けた後、再び客船として活躍、
24年間で大西洋を257回往復し、43万人もの乗客を運び、
のべ290万kmを航行した後、1935年に現役を引退した。
客船として、実に堂々たる経歴である。
歴史に「たら」「れば」を言うのは意味の無いことだが、
「タイタニック」にしても、あの事故さえ起こしていなければ、
ひょっとしたら「オリンピック」と同様に
豪華客船として、活躍していたかも知れない。
(ちなみに妹船である「ブリタニック」は、
 「オリンピック」と同じように、病院船として徴用された。
 だが1916年、エーゲ海のケア海峡を航行中、
 ドイツ軍の仕掛けた機雷に触雷、爆発を起こして沈没した。
 「タイタニック」はわずか3時間ほどで沈没し、
 これが被害者を増やした大きな原因だとされたが、
 「ブリタニック」はこれよりも早く、
 たった55分で沈没している。
 この船は、第1次世界大戦で沈んだ船の中で、最大のものとなった。
 「タイタニック」の事故後、安全性の見直しが図られたため
 「ブリタニック」の造船は大きく遅れた。
 結局、客船として全く使われないまま、
 徴用されることになったため、
 「ブリタニック」もまた「タイタニック」同様、
 商業的に全く利益を上げないままであった)

当時、最高の造船技術をもって建造された「オリンピック」級は、
船体が16の水密区画に区切られており、
それらが電動の防水扉によって、密閉される構造となっていた。
これらの扉は、ブリッジのスイッチ1つで閉めることが出来る上、
それぞれ個別に閉じることも可能だった。
さらに制御システムが作動せず、ある区画に水が流れ込んできても、
自動的に扉が閉まるようになっており、
予測不能などんな事故が起きたとしても、
沈むことは絶対にない、と信じられていた。
事実、「タイタニック号」の船長であるエドワード・スミスも、
「この船には、いかなる大惨事も起こりえないだろう。
 近代の造船技術は、そうした事態を凌駕している」
と発言している。
その発言直後の処女航海で、1500名以上の犠牲者を出す
沈没事故を起こした、ということを考えれば、
なんとも皮肉な発言をしたものである。
このエドワード・スミス船長は、それ以前から
「最悪の事態になったら、船と運命を共にする」
とも発言しており、実際、この「タイタニック号」沈没事故で
沈み行く船と運命を共にした。
まあ、不謹慎だが、
1500名も犠牲者を出した船の船長が、のうのうと生還していては、
その後のバッシングが、とんでもないことになっていただろうことは
火を見るよりも明らかなので、むしろ船と運命を共にしたことは
彼にとっては良かったのかも知れない。

この「タイタニック号」沈没事故が起こったのが1912年。
歴史的に言えば、まだ第1次世界大戦も始まっていないころである。
当時としては、史上最大の海難事故となり、
単船の引き起こした沈没事故としては、もっとも多い犠牲者を出した。
この「タイタニック号」の事故の後、アメリカ・欧州の双方で
事故調査が行われた。
その結果、制定されたのが
「海上における人命の安全のための国際条約」である。
この新しい条約では、船に搭載すべき救命ボートの数、
信号弾を遭難信号として利用すること、
無線機器に24時間態勢で人員を配置すること、などが定められた。
「タイタニック号」沈没事故で、
救命ボートの数が足りなかったことは良く知られている事実だし、
「タイタニック号」の打ち上げた信号弾について、
それを見た船が判断に迷い、救助が遅れたこともまた事実だ。
さらに、「タイタニック号」にもっとも近い位置にいた
貨物船カリフォルニアン号が、夜間、無線室を閉めていたために
SOS信号を受信できなかったという事実もあり、
まさにこの国際条約は、
第2、第3の「タイタニック号」事故を起こさせない
ためのものであったことが、よくわかる。
この国際条約が定められたことにより、
世界中で共通の、近代的な安全指針が定められたといっていい。
この近代的な安全指針は、この後、平時はもちろんのこととして、
第1次、第2次と繰り返された世界大戦の中でも、
犠牲者数を減らす働きをしていたと考えられる。

そう考えるのであれば、この「タイタニック号」沈没事故は、
海上航行における安全指針を、より近代的なものに生まれ変わらせた、
ターニングポイントになったと、いうこともできるだろう。
そういう意味で「タイタニック号」は、
人類に大きな教訓を、残してくれた「船」である。

Related Articles:

にほんブログ村 その他生活ブログ 雑学・豆知識へ
にほんブログ村

スポンサーリンク
スポンサーリンク

-乗り物, 歴史, 雑感、考察

Copyright© Falx blog 2 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.