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「松の廊下」の事件簿〜その1

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江戸城で有名な廊下といえば?という質問をすると、
恐らく、100人中100人が「松の廊下」と答えるだろう。

さらに続けて、では「松の廊下」以外の江戸城の廊下は?と聞くと、
これまた100人中100人が、何も答えることは出来ないだろう。

かように江戸城において「松の廊下」というのは有名なのであるが、
これはひとえに、元禄14年(1701年)、
浅野内匠頭の刃傷事件が、この廊下で起こったためである。

後に「忠臣蔵」として知られるようになる赤穂事件は、
勅使饗応役であった赤穂藩主・浅野長矩が
高家肝煎・吉良義央に、斬りかかったことから始まった。
このとき、浅野長矩は殿中差しと呼ばれる短刀を抜いて
吉良義央に斬りかかったわけだが、
相手に致命傷を与えることは出来ず、不首尾に終わった。
斬りかかった際に、「過日の恨み」と発言していることから、
彼らの間に、何らかのトラブルがあったものと考えられているが、
浅野長矩は即日切腹させられてしまったため、
彼のいう「恨み」が一体なんであったのかは、
現代になっても尚、はっきりとしていない。
浅野長矩の家臣であった、大石内蔵助をはじめとする47人は、
亡き主君の仇を討つべく吉良義央を襲い、
これを討ち果たすのである。

この赤穂事件は、当時の人々に大きな衝撃を与えた。
無論、赤穂浪士の引き起こした事件については
賛否両論があったわけだが、世間的には赤穂浪士の討ち入りを
義挙として賞賛する声が大きかったようである。

さて、ここまで長い前フリになったが、
わざわざ「松の廊下」の事件簿と銘打ったタイトルで、
いまさら「忠臣蔵」の話を語った所で、驚くようなこともないだろう。
もちろん、自分も「忠臣蔵」の話をするために、
「松の廊下」を取り上げたわけではない。
今回は、江戸城「松の廊下」で起こった、
赤穂事件以外の事件を取り上げよう、という話なのである。

「松の廊下」という名前で知られている廊下は、
かつて江戸城内にあった大廊下の1つである。
「松の大廊下」と呼ばれることもある。
本丸御殿の大広間から、将軍との対面所である白書院に至る
全長約50m、幅4mの廊下であり、
床は板敷きではなく、畳敷きであった。
「松の廊下」という名前の由来は、廊下に沿った襖に
松と千鳥の絵が描かれていたことに由来する。
松といっても、1本の大松が描かれていたわけではなく、
松並木が描かれていたという。

元禄14年の赤穂事件を、「松の廊下」第1の事件とした場合、
第2の事件が起こったのは、
その8年後の宝永6年(1709年)のことになる。
大聖寺新田藩の藩主・前田利昌が、
大和柳本藩の藩主・織田秀親を刺殺したのである。
事件の背景はこうだ。

宝永6年2月、5代将軍綱吉の葬儀が上野寛永寺で
執り行われることになった。
このとき、勅使饗応役を仰せつかったのが前田利昌である。
浅野長矩と同じ勅使饗応役というところに、なんとも因縁を感じる。
彼に殺された織田秀親は、その名前からも分かる通り
かつての織田家の末裔であり、彼にとって
前田利家を祖とする前田利昌は、元々は家臣であった一族である。
そういう意識があったためか、
秀親は利昌に対して傲岸不遜な振る舞いが多く、
2人の仲は、事件以前よりかなり悪かった。
綱吉の葬儀において、この仲の悪い2人が、共に饗応役に選ばれた。
もう、この時点で何かが起きそうな匂いがプンプンしている。
法要当日、2人の元に老中からの奉書が届いた。
そこには翌日、新将軍・家宣が参詣する予定が書かれていたのだが、
秀親はこの奉書を読んだ後、これを利昌に渡さなかった。
まあ、しょうもない意地悪である。
だが、これに利昌はカッとなった。
思わず、腰の刀に手が伸びたのだが、その場はグッとガマンした。
だが、堪忍袋の緒が切れた利昌は、その夜、
秀親を討ち果たすという決意を家老に打ち明けた。
驚いたのは家老である。
藩主がそのようなマネをすれば、藩の取り潰しは確実である。
なんといっても、8年前に浅野長矩が同様のことをして、
赤穂藩は取り潰されてしまったではないか。
家老は必死になって利昌を説得したのだが、
彼の決意は固く、ついに家老は説得を諦めてしまった。

さて、改めて秀親を討つということになると、
万が一にも失敗は許されない。
浅野長矩の二の舞は、御免である。
2人は、秀親殺害の手はずを決めて、
翌朝、江戸城内「松の廊下」にて、ことに及んだ。
「松の廊下」でやる辺り、
かなり赤穂事件を意識していたのかも知れない。
「松の廊下」で秀親に出会うと、まず、家老が彼を羽交い締めにした。
昨晩は利昌を必死で説得していたはずが、
いざ、やるとなったら、実に献身的に協力している。
利昌は即座に刀を抜いて、これを刺し殺した。
赤穂事件では、「松の廊下」は傷害事件の現場にしかならなかったが、
この第2の「松の廊下」事件では、ついに殺人現場になってしまった。

もちろん、江戸城内で殺人事件を起こしては、もうおしまいである。
利昌は切腹の沙汰が下り、この2日後に切腹して果てた。
大聖寺新田藩は取り潰しとなったが、
すぐに本藩であった大聖寺藩に還付されている。

こうして見ても分かるように、この「松の廊下」第2の事件は、
あの赤穂事件と、かなりの類似点がある。
事件の起きた時期的にも、まだ赤穂事件の記憶が新しいころで、
「松の廊下」での刃傷事件ということになると、
やはり皆、赤穂事件の再来か?と、
緊張感が走ったのではないだろうか?
ただ、赤穂事件と同じような結末に至らなかったのは、
加害者である前田利昌が、浅野長矩の失敗を思い出し、
一度は怒りを抑えて、確実な機会を狙ったためであろう。
この事件では、「松の廊下」だけで全てが完結しているので、
仇討ちなどの入り込む隙間がない。
そのため、構造的には非常に赤穂事件に似ていながら、
ほとんど人々の記憶にも残らず、忘れ去られてしまうことになった。

赤穂事件の反省を活かして、憎い相手に見事、
トドメを刺すことに成功した「松の廊下」第2の事件。
だが、この呪われた廊下は、今しばらくの時を経て、
何と第3の事件を引き起こしてしまうのである。

次回は、この「松の廊下」第3の事件について書いていく。

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