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国際化

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「国際化」という言葉は、よく耳にする。

TV番組などを見れば、偉い政治家や有識者が
「これからは国際化の時代〜」とか、
「国際化に適応した人材を〜」などという言葉を発している。
自分が学生だった時代にも、校長先生などが
生徒の前で演説をするときには、
「これからの国際化社会は〜」などという言葉をつかっていた。

だが、自分が小学生のころから
「国際化が〜」といっていたことを考えると、
実際にはもう何十年も、同じ言葉を繰り返していることになる。
あれから何十年かたったが、
本当に社会は国際化したのだろうか?

「国際化」を感じたいのであれば、
スーパーマーケットに行ってみるのが良い。
「食料品」という、人の生活に欠かせないものを
扱っている場所を見て歩くと、
我々の生活の変化を、生々しく感じとることが出来る。

かつては、ほとんど日本国内で生産されていた商品が、
いつの間にか労働賃金の安い、外国産に代わってしまっている。
最近のニュースで、「味の素」の国内製造をやめ、
海外で生産することにした、というものがあった。
国内唯一の生産拠点である、川崎工場での生産をやめ、
今後はインドネシアやブラジルで生産し、これを輸入するという。
こういう事例は、もうずいぶん前からあって、
「味の素」の件についても、
むしろ、今までよく国内でがんばってきたな、という印象が強い。
ただ、こういう事例では、
どうしても国内の雇用がなくなってしまうことになり、
景気を悪化させる要因にもなっている。

肉や魚、野菜などの生鮮食品売り場に行けば、
「中国産」「韓国産」「フィリピン産」
「ブラジル産」などといった表示を、至る所で目にする。
作った料理を食べている時には、
その材料や調味料が、どの国で生産されているかということを、
全く知ることが出来ないが、
スーパーへ足を運んでみれば、
いかに「食の世界」が国際化しているかということがわかる。
(輸出・輸入という、双方向的な国際化ではなく、
 輸入の大幅な拡大という、一方的なものではあるが……)

スーパーでみることの出来る「国際化」は、それだけではない。
スーパーに集まる客や、そこで働いている人々をみれば、
意外と外国人が「いる」ことに気付く。
ヨーロッパ系、アフリカ系、アラブ系、南米系、
東南アジア系の外国人については、
目で見ていてもすぐにわかるし、
日本人と見た目の差が少ない、中国・朝鮮系外国人にしても、
店員として働いている所を「ネームプレート」で確認できる。
改めて、周りにいる人々を見回してみると、
かつてとは比べ物にならないほどの外国人が、
我々日本人の周りに存在しているのである。

これらは、間違いなく「国際化」だといえるだろう。
だが、元々そこに住んでいる我々にしてみれば、
外国人が増えたというだけで、
それ以外、大きな変化は起こっていない。
これは、日本に移住して来た外国人たちが、
日本の生活習慣の中に、溶け込んでいるためだろう。
いわば、「日本化」してしまっているのだ。
こういう風に書くと、外国人たちの生活習慣を
無理矢理、日本に順応化させているようにも聞こえる。
もちろん、そういう側面も無いではない。
日本人は、自らの習慣に馴染まないものを
とりあえず「排除」していこうとする一面がある。
これは何も外国人のみならず、
日本人に対しても、同じような対応をする。
良いか、悪いか、という評価を加えずに判断するならば、
この「異物」を排除していこうとするのは、
日本人の持っている1つの性質であり、
この「異物」を受け入れる際には、
「異物」をそのまま受け入れず、何らかの「加工」を施す。
食文化でみてみれば、
純外国産の料理を、日本風にアレンジすることによって
食生活の中に取り込んで来た歴史が、
この性質を証明している。
これと同じことが、「人」においても
起こっているのではないか?
「純粋」外国人は否定し、「日本化」した外国人を受け入れる。
日本の言葉を話し、日本の文化・風習に従うものには寛容だが、
そうでないものは、「異物」として排除しようとする。
繰り返していうが、良い・悪いという判断とは別である。

これを外観的に判断すれば、
日本という国(人の集まり)は、
極めて「恒常性を維持しようとする性格が強い」といえる。
もちろん、外国からの刺激によって、変化はしているのだが、
「刺激」をそのまま「変化」に繋げるのではなく、
「刺激」に何らかの変化を付けて、
「日本化」したものを取り込み、「変化」していく。
いうなれば、いかに優れているもの、面白いものであっても、
それをそのまま取り入れるのは「癪」だということだ。
ただ、この「癪」だ、という気持ちがあるということは、
内面的には外国からの刺激を、認めているということになる。
そういう所もあってか、
日本人は「元祖」とか「本家」といったものを、
ことに重要視する。
日本人特有のジレンマが生み出す、ダブルスタンダードである。

この「恒常性を維持しようとする」働き、
一見、国際化という風潮に逆行しているように思えるが、
実はそんなこともない。
外部からの刺激を受け入れ、
容易に変化していくというのも、
国際化するために、とるべき方法の1つだが、
外部からの刺激を受けつつも、
容易に変化していかない、というのも、
国際化においては、重要な意味をもってくる。
というのも、国際化していないもの、
その国の固有の文化や風習などこそが、
国際化した世界の中では重要になってくるからである。
国際化によって、
国境というボーダーラインの意味が薄まりつつある現在、
易々と国際化されていない文化や風習こそが、
大きな価値を持つからである。

「国際化」というものを、分かりやすく表現するならば、
地球というパレット上のあちこちに、
絞り出された絵の具だと想像してみれば良い。
「国際化」というのは、この様々な色の絵の具を
混ぜていく行為でもある。
違う色の絵の具を混ぜ合わせれば、
今までに無い、新しい色が出来るが、
絵の具全てを他の色と混ぜてしまえば、
もとの色はパレットの上から無くなってしまう。
これはよくない。
それぞれの絵の具が、自らの色を発揮し、
さらにその一部を他の色と混ぜ合わせることで、新しい色を作る。
これでなくてはパレットの上は、
鮮やかさのない単一色が広がることになってしまう。
そんなパレットからは、
美しい絵も、楽しい絵も、生まれることはないだろう。
つまり、相反することを言っているように聞こえるが、
国際化していく上で、一番大切なことは、
「国際化しないこと」なのである。

船や飛行機などの、交通インフラの充実。
インターネットをはじめとする、通信インフラの充実。
これらによって、世界はすでに
1枚のパレットの上に乗せられた状態であるといって良い。
すでに国際化は、なされているのである。

この国際化社会で、自らの価値を高めていくためにも、
我々は易々と国際化してはいけない。

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