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赤とんぼの母

更新日:

先日、揖保川図書館によった際、
パンフレットの棚に、こんな風に書かれたリーフレットがあった。

「赤とんぼの母」

赤とんぼの母といっても、もちろん、産卵期を控えた
雌の赤とんぼのことではない。
我がたつの市で「赤とんぼ」といえば、
これは龍野市出身の詩人・三木露風が作詞した
童謡「赤とんぼ」のことである。
当然、ここに書かれている「赤とんぼ」というのが
三木露風を指しているわけだから、
この「赤とんぼの母」というのは、彼の母親のことになる。

童謡「赤とんぼ」は、詩人・三木露風が
子供時代の郷愁を詩として、綴ったものである。
三木露風の子供時代のエピソードとしてよく知られているのは、
彼がまだ幼少のころ、父と母が離婚して
母が実家のある鳥取へと去っていったというものだ。
当時、三木露風は6歳。
ちょうど、小学校に入学したばかりの年齢だろうか。
乳飲み子であった弟は、母と一緒に
鳥取へと連れて行ってもらえたものの、
彼は1人、父親の元に残された。
彼が長男であり、いずれ家を継がなければならない
立場であったことを考えると、
この別れはどうしようもないものだったのだろうが、
この幼いころの母との別れが、
三木露風の人格形成に大きな影響を与えたことは間違いないようだ。
彼はまだ幼さの残るころから、詩や俳句・和歌などに没頭し、
やがて上京して詩人となった。

この三木露風のエピソードに出てくる彼の母親は、
実に素っ気ない書かれ方をしている。
彼がまだ幼いころに、彼の父と離婚し、
鳥取の実家に帰っただけである。
「赤とんぼ」で有名な、たつの市の人間であっても、
三木露風の母親については、これくらいしか知らない人も多いだろう。
今回、自分が揖保川図書館で見つけたリーフレットは、
この「赤とんぼの母」こと「碧川かた」を、
NHKの朝の連続TV小説の主人公にしよう、というものであった。
このリーフレットを発行しているのは、
「童謡「赤とんぼ」の母 
 碧川かたを朝ドラの主人公にする会」。
まさに、この一事のみのために結成された団体である。

さて、ここまでの話を読んで、
「え?三木露風の母親の話なんて、
 ドラマに出来るようなものなの?」
と、思った人も多いのではないだろうか。
たつの市の人間であっても、彼女の認識というのは、
「三木露風が子供のころに、離婚して実家に帰った母親」
というだけのものである。
それが一体、どれだけのドラマになるというのか?
実は、ほとんどの人が知らないことだが、
三木露風の母・碧川かたの人生は、露風の父・節次郎と離婚してから
大きく、かつドラマチックに展開していたのである。

ここで、「赤とんぼの母」こと碧川かたについて、書いていこう。

明治5年、鳥取池田藩の元家老の次女として生まれたかたは、
元重臣であった堀正の養女となる。
明治20年、この養父が長崎に転勤になったため、
15歳のかたは、龍野円覚寺住職の養女となり、
ここで礼儀作法や漢学を学ぶ。
翌年、16歳になったかたは、
龍野町長であった三木制の次男・節次郎と結婚、
翌年には長男・操(三木露風)が生まれている。
さらに3年後には次男・勉が生まれるのだが、
夫であった節次郎が浮気をしたため、彼と離婚。
どうも、この節次郎という人は、かなりのロクデナシだったようで、
義父にあたる三木制が「まだ若いのだから、
新しく人生をやり直したら……」ということで離婚を勧めたらしい。
それなら、そもそも結婚させるなよ、と思ってしまうが、
ともかく、かたは離婚によって、実家のある鳥取に帰ることになる。
このとき、3歳の次男・勉は連れて行くことが出来たようだが、
先にも書いたように、長男・操は龍野に残された。
ちょうどこの辺りが、たつの市民にも良く知られている
「赤とんぼの母」のストーリーだろう。
この後、龍野に残った操(三木露風)は、祖父に養育されながら
詩や俳句・短歌へと、のめり込んでいくことになる。

一方、鳥取の実家に帰ったかたは、手に職を付け、自立するために
看護婦になることを決意。
上京して、東京大学病院付属の看護養成所に入学する。
そこで2年間の養成過程を経て、看護婦となった。
もちろん、この間、次男である勉は、
東京で、別に養父母に預けられていたのだが、
このころ三木家から、次男・勉を引き取りたいとの申し出があり、
この申し出を受けることになった。
しかし、引き取られた勉は、ほどなく結核にかかり、
若くして亡くなってしまう。
これをきっかけに、かたはキリスト教に入信、
看護婦としては5年間働き、ドイツへの留学の話も出たのだが、
彼女はここで碧川企救夫と結婚し、北海道へ渡ることを選択する。
彼は、上京するかたに付き添いをしてくれた男性で、
かたより7歳年下の男性だった。

北海道に6年間在住し、ここで1男2女を産んだ後、
夫の転職により再び上京、ここでさらに女の子を2人産む。
(実際には長女は生まれてすぐに養女に出されたので、
 家庭内は1男3女で、6人家族だったようである。
この時期は、夫である企救夫の収入が安定しておらず、
かたも介護の仕事などをして、家庭を支えたらしい。
(ちょうどこのころ、上京してきていた操(露風)から、
 手紙を受け取っている。
 生活の厳しさを母に訴える内容だったらしいが、
 この時期はかたの方も余裕が無く、
 援助してやることが出来なかったようだ)

東京で生活していく中で、
かたは女性の権利を確立するための運動に、注力していくことになる。
時代は大正時代。
まだまだ、女性の権利など、鼻で笑われていたような時代である。
そのような中で、かたは「婦人参政権」の獲得を目標とし、
「女性の権利」を拡大していくために、運動を続けていく。
昭和2年には「女権社」を設立し、雑誌「女権」を発行。
資金も広告も、自らが集めてまわり、
まさに当時、婦人解放運動の先駆者といって良い立場であった。
そして昭和20年。
彼女たちの運動は実を結び、
「女性参政権」が認められることとなった。
このとき、碧川かた73歳。
長く、厳しい戦いの果てでの「女性参政権」の獲得に、
老いたる彼女は何を思ったのだろうか。
これから9年の後、国会議事堂を訪れたかたは、
かつての婦人開放・女権獲得運動の日々を思い出し、
感激の涙を流したといわれている。

さて、ここまで読んだ人の中には、
こう思っている人もいるのではないだろうか?
あれ?お母ちゃん、息子(露風)よりもダイナミックに活躍してね?
そう。
詩や俳句・短歌といった芸術的な方面で活躍した息子・三木露風と、
女性の権利、参政権という政治的な方面で活躍した母・碧川かた。
活躍した舞台が違うのだから、単純にその活躍ぶりを
引き比べることは出来ないが、
日本という国における、歴史的な影響を考えた場合、
この母の残した影響は、極めて大きいものである。
女性参政権を獲得した9年後、国会議事堂の前に立ち、
かつての日々を思い出し涙を流すなどいう姿は、
もはや映画のラストシーンそのものではないか。

恐らくは、この「碧川かたを朝ドラの主人公にする会」の面々もまた、
自分と同じように感じたのかも知れない。
この「会」の活動が実を結ぶかどうかは、まだまだ定かではないが、
もしこのドラマが実現され、放映されるようなことになれば、
碧川かたもまた、新たなたつの市の顔としてプッシュされるだろう。
ひょっとしたら、息子(露風)以上に大ブレイクする可能性も
無いとは言い切れない。

全く「母は強し」である。

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