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黒田官兵衛~そのルーツ

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NHKの大河ドラマで、黒田官兵衛が活躍している。

地元姫路市をはじめ、その近隣の町では「官兵衛ゆかりの地」ということで、

観光客誘致に必死だ。

数年前、「清盛」の時にも便乗して盛り上げていたが、

今は全くその欠片も残っていない。

この手の盛り上げというものの、いい加減さを感じる。

歴史遺産、というものは時間を経たからといって、価値の減じるものではない。

ブームの波に左右されず、常に一定のアピールをしていてこそ、

定番のコンテンツ、人を呼べるものとなっていくのだ。

赤穂市の「忠臣蔵」など、その見本のようなものだろう。

この黒田官兵衛について、何回かに分けて、いろいろな角度から見ていきたい。

その初回は、官兵衛のルーツについて書いていく。

官兵衛のルーツを書く、といっても特に何かを調べる必要がない。

というのは、「黒田家譜」にきっちりと記載されているからだ。

「黒田家譜」は福岡藩黒田家の公式記録で、官兵衛の曾祖父・高政から、

官兵衛の嫡男・長政の時代までを収めたものだ。

寛文11年(1671年)、に3代藩主・光之の命令により、

儒学者・貝原益軒が編纂した。

貞享4年(1687年)に完成した「貞享本」と、

その後、幕府に提出するため、光之の命令で益軒の弟子・竹田春庵が

加筆修正した「宝永本」があり、これが正史と定められた。

全16巻あるが、曾祖父・高政から父・職隆までは第1巻に収められていて、

残る15巻で、官兵衛と長政のことが語られる。

というか、すでに第1巻の途中から官兵衛の記録になっている。

ほとんど官兵衛の記録といっていいだろう。

この「黒田家譜」を調べれば、官兵衛の曾祖父の代まで遡ることができる。

ここから先に遡っていくとなると、「藩翰譜」によることになる。

「藩翰譜」は江戸時代の、系図についての公文書である。

これによれば、黒田氏の祖先は滋賀県の木之本出身である、となっている。

滋賀県木之本町は、琵琶湖の北端から北東に入り込んだ山地である。

「藩翰譜」によると、黒田家はもともと宇多天皇よりでており、

その子孫である源宗満が、木之本町黒田の地で、はじめて黒田の姓を名乗った。

つまり源宗満が、黒田宗満になったわけだ。

この宗満を初代とした場合、第5代目が官兵衛の曾祖父である高政になる。

ただ、最近ではこの説も信憑性が疑われており、

実際に遡れるのは、高政までだ、とする説が強い。

確かにデータの確実性を重視するならば、これ以上は遡らないほうがよい。

滋賀県木之本町にいた黒田一族が、どうして姫路に来ることになったのか?

まず、5代・高政の時、木之本を離れ岡山県備前福岡にうつっている。

真偽のほどははっきりしないが、将軍家の争いに巻き込まれ、

その際、軍令違反をしたことにより、木之本を追放になったといわれている。

各地を転々とした一族は、やがて岡山県備前福岡の地に落ち着く。

すぐ近くには、備前焼で有名な伊部の里や、

名刀備前長船で有名な長船町があった。

さらに岡山県の東の大河である吉井川に接しており、水運も発達していた。

この点で、琵琶湖の近くであった木之本と、同じような立地を選んでいる。

この後、海に面した姫路に移ることを考えれば、面白い共通点といえる。

潜在的に、水運を利用することの有利さを、知っていたのかもしれない。

備前福岡に妙興寺というお寺があり、そこに2つの供養塔がたっている。

ひとつは官兵衛の祖父・重隆のものといわれ、

もうひとつは誰ものものかはっきりとしない。

かつて、まだその字が読めたころ、「高○」と読めたということなので、

これは官兵衛の曾祖父・高政のものであると思われる。

高政が、備前福岡にいたことの証拠のひとつだ。

そして官兵衛の祖父・重隆の代になって、黒田一族は播磨へ移っている。

これについては、浦上氏と赤松氏の戦から逃れて、という説がある。

いろいろなことに、巻き込まれる一族だ。

だが、当時の世の中の状況からすると、それが普通だったのかもしれない。

かくして、ようやく播磨の地へやってきた、黒田一族。

重隆は最初、龍野の赤松政秀に仕えるが、

5年後、同じ赤松一族で、より勢力のあった小寺氏に仕えることになる。

小寺氏は商才、軍才あった重隆を重用し、姫路に城を与える。

こうして黒田一族は、姫路の地に腰を落ち着かせることになる。

この姫路の地で、黒田重隆の孫として、官兵衛が生まれた。

……異説がある。

滋賀県の木之本町ではなく、兵庫県の西脇市黒田庄の出身である、という説だ。

これは江戸時代の地誌「播磨鑑」にでている。

地元の黒田区有文書の「黒田家系図」でも、黒田庄の出身になっている。

ただ、戦後出版された「近江伊香郡志」に、

「重隆器局あり……天文2年播磨国多賀郡黒田庄の城に遷り住む」

という記述があるので、ひょっとしたら備前福岡から播磨へやってきた際、

一時的に黒田庄に住んでいた時期があったのかもしれない。

官兵衛の代となった。

奇しくもこの官兵衛の代で、黒田一族は播州姫路の地を離れる。

秀吉の元で活躍を続けた官兵衛は、1587年豊前国中津へと移る。

おおよそ12万石。

官兵衛の活躍ぶりに比べると、これは決して多いとはいえないだろう。

これは秀吉が、官兵衛の才覚を恐れていたからだとも、いわれている。

朝鮮出兵をへて、秀吉との関係はかなり悪くなり、やがて秀吉が死ぬ。

間もなく関ヶ原の決戦が起こるのだが、このとき黒田家の当主であった長政は

石田方につかず家康に味方する。

そして同時期、九州では官兵衛が戦に駆け回っていた。

西軍についた大名を攻めていたとも、個人的な野望があった、ともいわれるが、

官兵衛の本心がどうであったかは、わからない。

関ヶ原合戦が終わり、長政は筑前名島(福岡)に32万石を与えられる。

隠居の身であった官兵衛もここに移り、以降、黒田一族は明治維新まで

この地に留まることになる。

なお、筑前福岡の福岡は、かつて一族の暮らしていた、

備前福岡からとったものといわれている。

次回は秀吉の軍師、官兵衛の「軍師」という部分について焦点をあててみる。

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