雑学、雑感、切れ味鋭く、思いのままに。

Falx blog 2

食べ物

天ぷら

投稿日:

たいがいのものは、天ぷらにすれば食える。

何をいっているんだ?と思われるかもしれないが、

山菜などを食べる場合は、この言葉がぴたりとはまる。

山菜どころか、そこらへんに生えている野草でも、天ぷらにしたら

食べれるものが多い。

肉や魚などでも、たいがいのものは天ぷらにして食べることができる。

天ぷら、というのは実に懐の深い料理方法なのだ。

今回は、この「天ぷら」について書いていく。

天ぷらというのは、具材に小麦粉・卵を水で溶いた衣をつけ、

高温の油で揚げたものだ。

油で揚げる、という料理法は、かつて唐より唐菓子が伝来した際に、

すでに日本に入ってきている。

古墳時代後期から奈良時代のことである。

「八種唐菓子」と呼ばれるものだ。

これが、日本で一番最初に作られた揚げ物である。

「八種唐菓子」のうち、実に5つが油で揚げた菓子になっている。

主にコメの粉や、小麦粉を練って、それを油で揚げたものなので、

一種のドーナツだ。

この「八種唐菓子」のうち、清浄歓喜団と呼ばれる揚げ菓子は、

現在でも京都の和菓子屋、亀屋清永で作られ続けている。

現代風にアレンジされているので、当時のものとは違っているが、

形状などは昔のままだ。

1000年以上の時を経て、同じ菓子が作られているというのは、

驚くべきことだ。

油で揚げる、という製法が伝わったのはかなり古かった。

しかし、これが一般化するのは、16、17世紀になってからだ。

古代、油の生産量は少なく、貴重品であったために、

「揚げる」という調理法は、一般的なものにはならなかった。

これが一般的になるには、植物油の生産量増加を待たなければならない。

揚げ物ができるだけの、植物油が生産されるようになったのは、

安土桃山・江戸時代になってからのことだ。

充分な量の植物油が生産されるようになると、

およそ1000年の時を越えて、油で揚げるという調理法が広まる。

そのきっかけとなったのが、南蛮人たちだ。

彼らが小麦粉の衣をつけた、天ぷらに近い形態の揚げものをもたらした。

今日でいう所の、フリッターだったと思われる。

彼らは、主に鳥獣肉を調理したが、日本では獣肉を嫌う習慣から、

魚類を主として作るようになった。

これは長崎で完成したことから、「長崎天ぷら」とも呼ばれる。

これが関西に伝わり、さらに江戸幕府開府とともに江戸に持ち込まれた。

ちなみに、魚肉を練った、いわば練り物を油で揚げたものも、

「天ぷら」と呼ぶことがある。

全国的には「さつま揚げ」という名前で通っているが、

その肝心の薩摩地方では「つけ揚げ」と呼ばれている。

このことから、「さつま揚げ」は、薩摩地方が発祥の地であったとしても

「さつま揚げ」という名前は、薩摩地方以外でつけられたようだ。

江戸の天ぷらは、魚介類に串をさし、衣をつけて揚げたものであった。

一種の串揚げだ。

これを「天ぷら」と呼び、野菜類を揚げたものは「揚げもの」と呼んでいた。

江戸の天ぷらの具材として使われたのは、アナゴ、芝エビ、コハダ、貝柱、

スルメ、などである。

コハダとスルメ以外は、現在の具材と同じだ。

これらはまず、江戸の庶民階級の間で、広まっていった。

したがって、値段も安価で、天ぷらひと串2文であった。

価格の変動はあるだろうが、かけそば1杯16文だったことを考えると、

驚くべき安さである。

これらは屋台で販売され、庶民は全くのファーストフードとして、

天ぷらを食べていたようだ。

さて、天ぷらという名前の由来だ。

これについても諸説ある。

まず「テンプラ」自体が、ポルトガル語では「調理」という意味をもっている。

これを聞いた日本人が、これをそのまま料理の名前と思った可能性は大きい。

さらに江戸時代初期、「てんぷらり」という名前の料理があった。

この「てんぷらり」と「テンプラ」の関係については、はっきりしないが、

無関係とは思えない。

ちなみに徳川家康が、鯛の天ぷらを食べて腹痛を起こし死んだという話は、

よく知られているが、もし江戸時代初期に、

鯛の天ぷらを食べていたとすれば、それは後の「天ぷら」ではなく、

この「てんぷらり」であったと推測される。

さらに「天ぷら」は、漢字で「天麩羅」と書く。

これを考えたのが、戯作者として有名な山東京伝であった、という話だ。

この「天麩羅」の字を読み替えると「天(あ)麩(ぶ)羅(ら)」となる。

山東京伝については「天ぷら」という名前そのものも、考えたという説がある。

天竺浪人の「天」、ふらりと江戸に来たので「ふら」、

これを組み合わせて「天ぷら」としたというのである。

「「てん」は天竺のてん、すなわち揚ぐるなり。

  ぷらに麩羅の二字を用ひたるは、小麦の粉のうす物をかくるといふ義なり」

と書いている。

ただ、「天麩羅」という漢字についてはともかく、

「天ぷら」という名前もというのは、正直怪しい。

先に書いた通り、江戸時代初期にすでに「天ぷら」という言葉自体はあったし、

それに似ている「てんぷらり」という料理名も存在していた。

これを考えると、山東京伝の逸話も話半分ほどで聞いておかないといけない。

全体的な流れとしては、こうだろう。

まず、長崎にきたポルトガル人が、フリッターを作る。

それを見て「何を作っているのか?」と日本人が尋ねたが、

間違えて「何をしているのか?」と聞いてしまった。

それに対して「テンプラ(調理)」と答えた為に、日本人はその料理の名前を

「天ぷら」と思い込んでしまった。

それが広がっていくうちに、「天ぷら」は「てんぷらり」とも、

呼ばれるようになった。

やがて江戸時代中期、「天ぷら」に漢字をあてたいと思った商人が、

戯作者の山東京伝に相談した。

京伝は、天ぷらを「油」とかけた「天麩羅」という字をあてた。

この逸話が間違って伝えられ、「天ぷら」という言葉自体も、

山東京伝が作った、という話ができてしまった。

「天ぷら」というのは、きわめて単純な料理だ。

それだけに、奥の深い料理でもある。

最初、屋台で庶民に提供されていた「天ぷら」は、

数百年の時を経て、高級料理の代名詞のようになってしまった。

「天ぷら」のよい所は、わりと一般家庭でも作りやすい点だ。

油を使う料理なので、面倒くさいようにも思えるが、

具材の準備さえすれば、後は順番に揚げていくだけだ。

これは火力の調整の簡単な、ガスコンロの普及が大きく関係していると思う。

それまでは面倒だった、油の温度の調節が、やりやすくなった。

そのため「天ぷら」は、家庭でも作れる料理になった。

しかしその反面、天ぷら油火災というものも、生み出してしまった。

一般家庭の火災原因で、天ぷら油火災は代表的なものになっている。

くれぐれも火にだけは注意して、おいしい天ぷらを食べたいものだ。

Related Articles:

にほんブログ村 その他生活ブログ 雑学・豆知識へ
にほんブログ村

スポンサーリンク
スポンサーリンク

-食べ物

Copyright© Falx blog 2 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.