夏といえばスイカ、という風潮がかつてあった。
もっとも現在でも、そのように言う人もいるが、数はずいぶん少なくなった。
そもそも自分が子供だったころ、すでに夏といえばスイカというのは
時代遅れ的な感じはあった。
すでに子供の夏のオヤツといえば、かき氷やアイスクリームだったのだ。
それでも一部、スイカ好きな子供はいた。
概ね、都会暮らしの子供だったと思う。
都会に住んでいる親戚が、夏休みに遊びにくると、
喜んでスイカを食べていた。
あれから数十年。
ずいぶんとスイカとはご無沙汰だった。
今回はそのスイカについて書いていく。
スイカ、というのはウリ科のつる性の一年草だ。
ウリ科、ということは、あのメロンと親戚である。
スイカを英語でいうと「ウォーターメロン」になる。
水メロンだ。
いかにスイカの水分が多いかがわかる。
漢字で書くと「西瓜」となる。
これは中国語の表記そのままで、中国の西方から来た瓜、という意味がある。
その名の通り、スイカの原産地は中国のはるか西方、南アフリカだ。
エジプトでは紀元前6000年ごろから農耕・牧畜が始まっており、
その遺跡から、スイカの壁画が見つかっている。
恐らくはそのころから、栽培されていたものと思われる。
これが中国に伝わったのは、11~12世紀ごろといわれる。
この時にあてられた漢字が「西瓜」であった。
他に「水瓜」「夏瓜」という表記もあった。
これが日本に伝わったのは、17世紀のことだ。
黄檗宗の開祖、隠元禅師がもたらしたといわれている。
「インゲンマメ」に「にがり」、そして「スイカ」まで。
本当に、色々なものをもたらしてくれた。
が、異説もある。
というのも鳥羽僧正(1053~1140年)が描いた「鳥獣戯画」に、
スイカらしきものが描かれているのだ。
さらに義堂周信(1325~1388年)の「空華集」にも、
スイカの詩がみられることから、もっと早く、
平安時代後期には作られていたのではないか、ともいわれている。
しかし江戸時代まで、人々は好んでスイカを食べなかった。
「本朝世事談綺」(1734年)には、「人またあやしみて食せず」とある。
「和漢三才図会」(1713年)には、
「青臭き気を悪み、なかご汁、赤色にて血肉に似たり。
児女特に食せず」
とある。
相当に嫌われている様子が、うかがえる。
スイカは人の生首を連想させたらしい。
あの緑と黒の縞々模様の、どこが生首に見えるのか?とも思えるが、
スイカが現在のような縞々模様になったのは、昭和初期以降で、
それ以前は黒皮、無地皮のスイカが一般的であった。
江戸時代のスイカを描いた絵を見てみると、確かに模様が描き込まれていない。
緑色の丸いボールだ。
これなら生首に見えなくもない……、のだろうか?
そんなスイカが、一般に受け入れられるようになったのは、1770年ごろだ。
このころにはすっかり夏の風物詩として、食べられるようになっている。
販売方法は、街灯での断ち売りで、包丁で手頃な切り身にして売りさばいた。
赤い紙を貼った、赤行灯が目印であった。
一度受け入れられてしまうと、後は早い。
すぐに丸まま一個の販売も行なわれるようになった。
このころから、実際に購入する前に、スイカを叩いてみることがはじまっている。
さて、ようやく人々に受け入れられたスイカだが、
我々にはスイカは夏のもの、という固定概念がある。
ところが俳句の世界では、スイカは秋の季語となっている。
これはスイカの旬が、立秋(8月7日)を過ぎるからであり、
暦の上では秋ということになっているからだ。
俳句の世界では、残暑厳しい季節の、一時の涼ということだろうか?
スイカを使った遊びに、スイカ割りがある。
目隠しした状態で棒を持ち、地面においたスイカを叩き割る遊びだ。
これの起源には諸説ある。
・安土城建築の際、夏の暑さに参っている人々の気持ちを盛り上げるために、
豊臣秀吉が考案したという説。
・巌流島の決闘の後、佐々木小次郎の頭をスイカに見立て、
その怨霊を鎮めた、という説。
・京都の地主神社にある「恋占いの石」に、10m離れている所から、
目隠ししてたどり着いたら、恋が成就するという話が、
元になっているという説。
この3つが主な説だ。
しかし調べてみると、これらの説は、
あるテレビ局が番組のネタ用にと、募集していたものだ。
安土城建築説、巌流島説は、隠元禅師が持ち込んだという話を信じれば、
全く時代に合わないことになってしまう。
さらに江戸時代後期まで、気味悪がって喜ばなかったものを、
秀吉が気分を盛り上げるために使った、というのは不自然に思える。
特に、巌流島説の元になったと思われる書き込みの最後に、
その出典元の記述があるのだが、そこに「民明書房刊」と書いてある。
おお、この5文字で、内容の信頼性が200%ダウンだ。
さすがにこれはジョークネタだろう。
と、なると最後は地主神社説だ。
これは京都市東区、清水寺のすぐ側にある。
縁結びの神社として有名で、確かに恋占いの石も実在している。
しかしこれが元になっているのなら、スイカを叩き割るというのは
少々暴力的に過ぎないだろうか?
まさかスイカを、失恋相手の首に見立てて……。
これ以上は怖いので、考えないことにする。
しかしこの説をとったとしても、いつからスイカ割りが始まったのかは
はっきりとしない。
結局の所、一般庶民にスイカの行き渡った、江戸時代後期からのものだとは
考えられるが、細かい事情はわからない。
さて、冒頭では田舎の子供があまりスイカが好きではない、
というようなことを書いた。
これは多分に自分の経験が関係している。
夏のスイカは定番ではあるが、自分の家で栽培していた場合、
それこそ収穫期になると、次から次へと穫れることになる。
子供達は、それをせっせと食べさせられることになる。
不思議なことに、大人たちは気が向いた時しかスイカを食べない。
ノルマのようにスイカを食べさせられるのは、子供の役目だ。
近所に配ってほしい所だが、近所もみんなスイカを作っていて、
地区内でスイカがだぶついている。
ひどい時には、よそのスイカがまわってきたりする。
贈り物のスイカではなく、実際は厄介払いのスイカだ。
あれから数十年、うちのまわりも住宅化が進み、ようやくスイカの過生産は
終わりを迎えたようだ。