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シベリア

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「シベリア」という言葉には、
どこか暗い影がつきまとう。

シベリア送り。
シベリア抑留。
永久凍土。
厳寒の地、等々。

ロシアの東半分、というよりは
ロシアのほぼ4分の3ほどが、
「シベリア」と呼ばれる地域だ。
ロシアの首都、モスクワをはじめとする
主要都市のほとんどは、ヨーロッパに近い
西側に集中している。
というのも、もともとロシアはヨーロッパに面した
一部を領有していただけであり、
時代とともに東へ、東へと、領土を広げていき、
ついにシベリアを征服しつくして、
太平洋に達したのである。
世界地図を見れば、
ユーラシア大陸に覆いかぶさるようにして、
ロシアがその巨大な領土を誇示している。
その広大な領土のうち、アジアの上にある部分が
「シベリア」なのである。

シベリアは気候条件が厳しく、
冬期には-70℃という気温を観測することもある。
厳寒の地、と呼ばれる由縁である。
ロシアがこの広大なシベリアの大地を征服できたのも、
この過酷な自然環境の中で、ロシアに敵対できるほどの
強大な国家が成立し得なかったためともいえる。
まさに、灰色の雲に覆われた極寒の地、
それが我々日本人の持つ、「シベリア」のイメージである。

そんな「シベリア」の名前を持つ、お菓子がある。

カステラの間に羊羹、あるいは小豆餡を挟んだものだ。
主に中部地方から、東側の地域で食べられている菓子で、
西日本ではあまり見られない。
「シベリア」などという名前がついているので、
アイスクリームのような「氷菓」か?と思ってしまうが、
全く常温のお菓子である。

この「シベリア」、
名前も聞いたことがあるし、
どんなお菓子なのかも知っていたが、
永らく食べる機会がなかった。
先にも書いたように、
西日本では、ほとんど販売されていなかったためだ。

ところが先日、近所のスーパーの中を見ていると、
「三角シベリア」と名付けられた、
「シベリア」が販売されていた。
大きさは、コンビニで販売されているサンドイッチより
ひと回り小さいくらいで、
見た目もサンドイッチに近い。
パンの部分がカステラになり、
具材の部分が羊羹になっている。
ちょうど5層構造になっており、
2枚の羊羹の層と、3枚のカステラの層で出来ている。
特売の菓子パンコーナーの隅の方に、
ちょっと乱雑に並べられていた。
値段も100円ほどである。
早速ひとつ購入して、食べてみた。
初「シベリア」である。

味の感想としては、カステラと羊羹の味である。
身もフタもない感想だが、
こればっかりは他に例えようもない。
柔らかい、ふかふかのカステラに、
わりとしっかりとした固さの羊羹が挟んである。
いや、挟んであるという言い方は間違いだ。
単純にカステラの間に羊羹を挟んだものではなく、
羊羹とカステラがしっかりと密着しているのである。
薄くスライスしたカステラの上に、
固まる前の羊羹を流し込み、
さらにその上にカステラをのせる。
そういう行程で、作られているらしい。
つまりこの5層はバラバラにならない。
今回購入したシベリアは、5cmほどの厚さがあり、
大口を開けて、かぶりつかなければならなかった。

「シベリア」がいつ、どこで作られ始めたのかは、
はっきりとしていない。
文献を調べる限りでは、明治時代の後期には
すでにミルクホールの定番のお菓子となっていたようだ。
このミルクホールというのは、
喫茶店の前身ともいうべきもので、
政府が日本人の体質改善のために、
ミルクを飲むことを推進していた
明治時代に多く見られた。
どこで?というのも、全く明らかではなく、
関東の都市部を中心に食べられていたことから、
その辺りで作り出されたとする説が有力である。

カステラと羊羹、あるいは小豆餡という組み合わせは、
この「シベリア」が初めてというわけではない。
現在でも松山銘菓として販売されている「タルト」は、
江戸時代前期には作られていた。
ただ、江戸時代中は、その製法は久松家の家伝とされ、
これが一般に広がるのは明治時代以降のことである。

「シベリア」という名前の由来についても、
様々な説がある。

カステラに挟まれた羊羹を
シベリアの永久凍土に見立てたという説。
あるいはシベリア鉄道の線路に見立てたという説。
シベリア出兵にちなんだという説。
日露戦争に従軍していた菓子職人が考案したという説。

少なくとも、名前の由来はロシアの「シベリア」で、
間違いないようである。
ただシベリア出兵は、
「シベリア」が作られた後の話であり、
これが名前の由来というのは、考えられない。
さらに日露戦争だが、
日本軍が陸路で進んだのは奉天までで、
これは現在の瀋陽である。
ここは中国の東北部であり、シベリアではない。
菓子職人が日露戦争に従軍していたとしても、
果たして行ったこともないシベリアの名前を
菓子につけるだろうか?
シベリアの永久凍土にしても、
シベリア鉄道の線路にしても、
当時の日本人には、馴染みが薄かったはずである。
どちらの説も、
菓子の名前のモチーフにしたというのには、
無理がある。

「シベリア」という名前。
カステラと羊羹、あるいは小豆餡という組み合わせ。
明治時代後半。

この「シベリア」を指し示すキーワードが、
集中している日本の地方都市がある。
あの「タルト」を銘菓としている、四国・松山である。

明治時代後半に起こった日露戦争では、
多くのロシア人捕虜が、日本へと連れてこられた。
このときのロシア人捕虜に対する扱いは、
国際法に基づいた人道に則したものであり、
特にその中でも、松山の収容所は捕虜への扱いがよく、
ロシア兵が「マツヤマ!」と叫びながら、
投降することもあったらしい。
食事も、当時の日本人の基準を超えるものが与えられ、
遊郭への立ち入りも許可されていたという。
さらに傷病兵は、看護人として
ロシアから妻を呼ぶことも許され、
ロシアからやってきた妻には、住む家も与えられた。
信じられないほどの好待遇である。
これには、日本が国際法を遵守する、
一流の文明国家であることをアピールする狙いがあった。

ともかくである。
そういう状況の中、松山銘菓である「タルト」が、
このロシア人捕虜達に供されたと考えるのは、
極めて自然なことである。
その中で、ロシア人捕虜を慰める意味で、
彼らが祖国で食べていた菓子、
恐らくはケーキの類いだろうが、これに似せて、
「タルト」を作り直したのではないだろうか?
そしてそれを、彼らの故郷の大地の名を取って、
「シベリア」と名付けたのではないだろうか?

これが四国・松山から、関東に伝わった理由は不明だ。
松山から東京へ移送される捕虜達に、
道中の菓子として持たせたのかもしれない。
関東へ伝えられた「シベリア」は、
そこで小豆餡を羊羹に変えたりしながら、
広まっていった。
一方、ロシア人捕虜のいなくなった松山では、
もともとあった「タルト」へと回帰していき、
「シベリア」は自然にその姿を消した。
かくして「シベリア」は、関東にのみ生き残り、
そこを中心として広がっていったのである。

と、壮大な推測をしてみたが、
これを裏付けるものは、何もない。
だが、松山の「タルト」が、
「シベリア」の元になったという説も、
存在しているのは確かだ。
だとすれば、「シベリア」という名前の由来を、
日露戦争時、松山にいたロシア人捕虜達に求めても、
それほど荒唐無稽ではないだろう。

先に書いた通り、
「シベリア」はもともと東日本を中心にして
販売されていたお菓子だ。
さらにいえば、最近はその消費量も落ち込んでいた。
そんな「シベリア」が再び注目され始めたのは、
スタジオジブリの映画「風立ちぬ」の中で、
主人公がこれを購入する描写があったからだ。
自分の地元のスーパーにこれが並んだのも、
あるいはこの映画が影響しているのかもしれない。

ただ、その扱われ方を見ている限りでは、
「シベリア」が関西に定着するのかは、
かなり疑わしい。
もし、関西以西で「シベリア」を
販売しているのを見つけた場合、
とりあえず購入して、
食べておいた方がよいだろう。

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