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歴史

養久山古墳群

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以前、「元旦登山」が行なわれている山を調べていたとき、
養久山古墳群の名前があって驚いた。
あまりにも近場の山だったからだ。

養久山というのは、たつの市内の
揖西町と揖保川町の境界上を東西に走る、低山である。
平成の大合併によって、
龍野市と揖保郡揖保川町がひとつになる前は、
この2つの自治体の境界線となっていた山だ。
自分の住んでいるたつの市揖西町は、
北・西・南を山に囲まれているが、
その南東側にあるのが、養久山である。
中学時代には、常にこの山を南側に眺めながら
通学していたので、非常に見慣れた山でもある。
この山の揖西町側には、登山口らしきものはなく、
そのため「この山に登る」という発想すら浮かばない。
養久山とは、そういう山である。

ただ「養久山古墳群」という名前は、よく目にしていた。
揖保川町内を自転車で走れば、
国道2号線以北に、「養久山古墳」と書かれた看板が、
いくつも立っているからだ。
その内、機会があれば見に行ってみたいなー、
と思っていたのだが、
いつでも見に行けるという地理的状況のためか、
ついつい「また今度」ということになっていた。
が、初日の出が拝める山上広場がある、という情報を見て、
「ひょっとして、この山、登れるんじゃないのか?」
と思い至ったのである。
そしてネットで調べてみると、
この東西に伸びる養久山の稜線上を、
遊歩道が延びているということが明らかになった。
いくつかの登山記録も見つかり、
その記録に添えられた写真を見る限りでは、
そこそこ幅のある、歩きやすそうな道であった。
途端に「行ってみなければ」という気になった。

その気にさえなってしまえば、後は早い。
ネットで地形図を調べ、
登山者の登山記録と、
写真などから登山口を割り出した。
標高も調べてみたが、
99.2mと、わずかに100mに足りない。
まさに低山、里山である。
養久山古墳群のほとんどは、この稜線上に点在しており、
この低い里山を東西に縦走すれば、
大方の古墳を見て回ることが出来る。
さらに調べてみると、この稜線上には
小さいながらも「城跡」があるという。
これらを1回の縦走で、ひととおり見て回れるわけだ。
今まで何気なく見続けてきた山の稜線上に、
きちんとした縦走路があるという事実は、
ちょっとしたワクワク感を与えてくれる。
すぐさま水筒に水を注ぎ、
自転車に乗って登山口へと向かった。

登山口は東西に伸びた養久山の、東の突端にある。
もちろん、ここ以外にも登山口は存在するのだが、
養久山古墳群の1番の目玉、
「養久山1号墳」が養久山稜線上の西端部にあるため、
ここを目標として、東端の登山口から入山し、
ひととおりの古墳群と、城跡を見て1号墳に到達、
後は、再び同じコースを辿って登山口に戻るという、
いわば往復縦走の形をとることにしたのだ。
1号墳を見た後に、そのまま下山し、
後は一般道を歩いてスタート地点に戻るというのも、
考えなくはなかったが、
自分はこういう場合、
一般道を通って、もとの場所に戻るよりも、
山道を歩いて戻るようにしている。
理由は単純で、一般道を歩くよりも
山道を歩く方が好きだからだ。

この養久山古墳群には、
およそ40ほどの古墳が点在している。
どれも弥生時代後期から、
古墳時代前期にかけての古墳となっており、
大型のものでは、全長32メートルの前方後円墳がある。
これが「養久山1号墳」だ。
といっても、一般的に知られている
カチッとした鍵型の前方後円墳ではなく、
鍵型のサイドの部分が曲線状になっている。
だから「鍵穴」というよりは、
「杓文字」に近い形になっている。
ご飯をよそうあれだ。
これは奈良県の箸墓古墳と似た形状となっているため、
同時代のものではないかと考えられている。
箸墓古墳は「卑弥呼の墓」ともいわれており、
養久山1号墳に埋葬されていたのは、
卑弥呼と同時代の人間である可能性が高い。
養久山古墳群には、この1号墳の他にも、
ひとつの墳丘に2つの石室を持つ、
珍しい形の古墳(19号墳)もある。

稜線上に30近くある古墳群には、
ただの丘にしか見えないものや、
石がいくつか埋まっているだけのもの、
さらにはどこに古墳があるのか、
さっぱりわからないものまで、
実にバラエティが豊かである。
古墳のある場所には、プレートが設置されているので、
プレートを見つけたら、その辺りを探してみよう。

行程を半分過ぎた辺りに、小さな石仏がある。
この石仏には、弘化4年(1847年)の銘がある。
江戸時代の末期だ。
どうしてこんな場所、そんな時期に、
石仏を作ったのかは不明だ。
パッと見た感じは、小さなお地蔵さんに見える。
この石仏を過ぎてしばらく進むと、
東南方向にひらけた場所に出る。
恐らく初日の出を拝むのは、ここだろう。
立派な東屋があるので、ここが休憩ポイントになる。

この東屋のすぐ先に、「乙城跡」がある。
この城は建武年間に赤松円心の命によって作られた。
嘉吉の乱の際に、一時、廃城の憂き目に遭うが、
後の赤松氏の再興とともに、この城も復興した。
天正6年(1578年)、羽柴秀吉によって
龍野城を追われた赤松広秀が、この乙城に入った。
天正13年(1585年)、広秀は竹田城へ移され、
その際に乙城は廃城となった。
以降500年の間にすっかり寂れ、
現在では、ほとんど城の形跡は残っていない。

ここからさらに10ほどの古墳を越えて歩くと、
大きくひらけた場所に出る。
その広場のまわりは竹垣で囲まれており、
今までの古墳群とは扱いが違う。
ここが「養久山1号墳」だ。
先に書いた通り、この古墳群の中でも
最大の前方後円墳で、一番の見所となる。

この養久山古墳群は、近場であるためか
意外と地元の人間は登ってこない。
自分と同じように、「いつでも来れる」ということと、
歩きやすい縦走路があることを知らないためだ。
標高の低い山なので、
かなり手軽に尾根歩きを楽しむことが出来る。
子供を連れて、ハイキングがてらに歩くには、
ちょうどいい距離だ。

山歩きを楽しみたいが、
遠くまで出かけていくのは面倒だ、という人にとっては、
まさに絶好のスポットである。

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