最近、天空の城が大人気だ。
スタジオジブリのアニメ映画のことではない。
山の上に建てられた、山城のことだ。
この山城が、雲海の上に姿を現していると、
まるで空中に浮いているように見える。
これを「天空の城」と呼び、日本各地にいくつか存在している。
その中でもっとも有名なものが、朝来市にある竹田城だ。
その山頂に、立派な石垣の残っている様から、
「日本のマチュピチュ」などとも呼ばれ、天空の城ブームのハシリになった。
今回は、この天空の城、竹田城の歴史について書いていきたい。
竹田城が築城されたのは、室町時代の嘉吉年間といわれている。
西暦でいえば、1440年ごろの話だ。
口碑によれば、守護大名山名持豊(宗全)の有力家臣の1人、
大田垣氏が築いたとされている。
竹田城が築城された嘉吉年間、室町幕府では大事件が起きている。
嘉吉の乱だ。
美作・備前・播磨の守護大名、赤松満祐によって、
6代将軍足利義教が暗殺された事件だ。
赤松満祐は播磨へ逃走、城山城に立てこもって、幕府追討軍・山名持豊と戦った。
結果、満祐は討取られ、その後も赤松氏による抵抗は続いたが、
ことごとく平定されている。
この嘉吉の乱において、山名氏の、いわば戦略拠点として、
竹田城は機能していた。
この時、山名氏の有力な家臣であった大田垣氏が、この城を守った。
以降は、戦国時代に織田信長の先兵としてやってきた、
羽柴秀吉軍に攻められるまで、大田垣氏が城主を務めていた。
1577年、羽柴秀吉の弟、羽柴秀長によって竹田城は攻められる。
竹田城の戦いだ。
記録によれば、わずか3日の戦闘によって竹田城は陥落し、
羽柴軍の手に落ちている。
その後、羽柴秀長が播磨へ引き上げた後、大田垣氏が再び竹田城にはいるが、
1580年、再び羽柴秀長よって攻められ、さしたる抵抗もなく降伏している。
これを機に、竹田城は大田垣氏の手を離れる。
秀吉は、竹田城に秀長の部下であった、桑山重晴を入れる。
後に桑山重晴が和歌山に転封になり、後釜として、
龍野城主・赤松広秀が、竹田城に転封された。
この赤松広秀は、かつてこの竹田城からの軍勢によって攻め滅ぼされた、
あの赤松氏の末裔だ。
かつて自らの一族を滅ぼした、山名氏の城の城主となった広秀。
彼は秀吉の支援を受けながら、新たな赤松氏の城となる竹田城を作り直す。
この時に、現代に残っている竹田城跡の石垣は作られた。
この新竹田城を拠点として、赤松氏の新たな出発を思ったに違いない。
しかしその思いは遂げられることなく、大名赤松氏は間もなく滅亡する。
そして彼こそが、竹田城最後の城主となったのである。
関ヶ原の戦いで、西軍について戦った広秀。
結果はご存知の通りである。
広秀は、鳥取で自刃。
これにて赤松氏の宗家は滅びることになる。
室町時代、足利尊氏とともに戦い、
播磨・美作・備前を支配する守護大名となった赤松一族。
嘉吉の乱での滅亡の危機を乗り越え、必死に戦国の世を生き延びてきたが、
ここ竹田城にて、大名赤松氏は歴史の舞台から姿を消すのである。
城主である赤松広秀の自刃にともない、竹田城も廃城となる。
広秀が竹田城を作り直してから10年もたたずに、
竹田城はその役目を終えることとなった。
だが、竹田城が滅びてから400年。
この悲運の城は、世間の注目を集めることになる。
2006年、日本100名城のひとつに選ばれ、
さらにその雲海に浮かぶ姿がTVや雑誌などで報じられ、
にわかにブームが巻き起こる。
いわゆる「天空城」ブームだ。
これにより、年々、竹田城を訪れる観光客は増え始める。
2013年度には、観光客が40万人を超える。
この数年前は、観光客数が年間2万人ほどだったわけだから、
その急激な増え方は、驚異的だ。
この急激な観光客の増加によって、問題も起きてきた。
ひとつは観光客が自由に見て回ることにより、一部石垣が崩落をはじめたのだ。
そしてもうひとつ、観光客の転落事故が起こったことだ。
これまでになかった転落事故が、このタイミングで起こったということも、
やはり観光客の増加が、原因だろうと考えられる。
とはいえ、マナーの悪い観光客は別としても、
ただ竹田城を見たいという観光客には、基本的に何も咎めるべき要素がない。
ただただ、その数が多すぎることが問題なのだが、
これもまた、観光客自身には、全く非がない。
朝来市としては、なんとも頭の痛い問題だろう。
現在、姫路城は、改修工事のため見学が一部制限されている。
だが来年3月には改修工事が終わり、姫路城の見学が完全なものになる。
そうなると、竹田城と姫路城は直線距離で40kmほどだ。
播但連絡道とJR播但線が、この2つの名城を結びつける。
観光客からすると、垂涎ものの観光ルートが出来上がる。
「天空の城」と「白鷺城」。
日本屈指の名城をまとめて。
……どれだけ観光客が増えるのか、考えたくもない。