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和泉式部と播磨

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歴史に名を残している女性で、平安時代の女性といえば、

概ね宮中にいた女性ということになる。

有名どころを書き出してみると、小野小町、和泉式部、紫式部、清少納言か。

この頃、というか、日本の近世以前において、女性の扱いはひどい。

何がひどいかといって、その家系図での扱いがひどい。

名前も何もなく、ただぽつねんと「女」の一言ですましている。

そういう時代であったからこそ、1000年経った今でも、

名前の残っている女性には、何らかの大きな特徴があった、と思っていい。

先に書いた平安女性でも、小野小町は美人、和泉式部は和歌、

紫式部は「源氏物語」、清少納言は「枕草子」と、代名詞のようなものがある。

今回はこの中で、播磨に関係が深い、和泉式部を取り上げ、

その関係について書いていく。

和泉式部が生まれたのは、平安時代の978年頃といわれている。

現在の呼称である和泉式部だが、「和泉」というのは、最初の夫である

橘道貞の任国から、「式部」というのは父親の官名である。

彼女ほど歴史に名前の残っている女性でも、

その名前の実態はこのようなものである。

ともあれ、和泉式部は999年頃には、最初の夫である橘道貞と結婚している。

少なくとも、このころから「和泉式部」と呼ばれていた可能性がある。

道貞と結婚した彼女は、そこで1人、娘をもうけている。

和泉式部と同じく、歌人として名前の高い「小式部内侍」だ。

和泉式部の娘だから、小式部。

ひねりがない、と言われればそれまでだが、

少なくともそこに、親子関係を読み取ることはできる。

ここで、ひとつ播磨との関わりが出てくる。

なんと、生まれたばかりの娘、小式部内侍を捨てるのである。

伝説によれば、小式部内侍が生まれる前に、父である橘道貞が亡くなり

育てることができずに、捨てたという。

ここで気になるのは、小式部内侍を生んだ和泉式部の年齢だ。

橘道貞が死んだのが1016年だ。

この年に小式部内侍を生んだとすれば、和泉式部は38歳である。

もちろん初婚で、初出産であったことを考えると、なかなか高齢出産だ。

いや、そもそも小式部内侍は20代の若さで、和泉式部よりも早く亡くなるのだが、

その年は1025年、計算が合わない。

だとすれば、どこがが間違っている。

何を基準にして考えるべきか?

ここは小式部内侍が亡くなった年を、基準にして考えてみる。

仮に小式部内侍が25歳でなくなったとすれば、彼女が生まれたのは

1000年ということになる。

これなら結婚1年目なので、高齢出産でもなんでもない。

すでにこの頃には、為尊親王と恋愛関係にあり、

そのために実家からは絶縁されているので、

小式部内侍を捨てることになったとも考えられる。

捨てられた小式部内侍は、たまたま京に上っていた、

播磨国若狭野村の長者によって拾われ、その国元へ引き取られる。

やがて、和泉式部が和歌で有名になり、心に余裕ができると、

捨てた小式部内侍のことが気にかかるようになる。

ある時、上東門院にしたがって書写山円教寺に参詣した際、

小式部内侍の行方を探して、若狭野村までやってくる。

そこで、長者の娘として育てられていた、小式部内侍と再会する。

小式部内侍の、非凡な和歌の才能を目の当たりにした和泉式部は、

彼女こそが自分の娘であると確信する。

小式部内侍を捨てた時に持たせていた、絹の端切れと、

和泉式部の持っていた、絹の端切れがぴったりと合い、

2人は親子の再会を果たす。

冷静に考えてみると、とんでもない話だ。

育児放棄とか、そういうレベルの話ではない。

本当に子供を捨てている。

後に和泉式部が小式部内侍を見つけた際、よく小式部が怒らなかったものだ。

もっとも伝説によると、この頃の和泉式部は和歌を詠んで、

栗の木の枝を垂れさせ、雨が降りかかるのを防いだという。

まるで妖術使いだ。

ひょっとすれば、この不可思議な和歌の力を使って、

娘を懐柔したのかもしれない。

娘と2人、都に帰った和泉式部だが、すぐに再婚した藤原保昌と一緒に丹後国にいく。

今度は小式部内侍を、都に置いていく。

再び娘と離れる和泉式部。

つくづく一緒にいられない親子だ。

この時に小式部内侍が詠ったのが、有名な、

「大江山 いくのの道も 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」

の歌で、百人一首のひとつに選ばれている。

親の因果が子に祟ったのか、小式部内侍は和泉式部よりも早く、

まだ20代の若さで早世することになる。

本当に不幸な娘だ。

もうひとつ、書写山円教寺に、和泉式部に関する言い伝えがある。

上東門院に仕えていた和泉式部は、

彼女に従って書写山円教寺に性空上人を訪ね、教えを請おうとする。

ところが性空上人は、居留守を使い、これに会おうとしない。

仕方なく上東門院一行は立ち去ろうとするのだが、

その時、和泉式部は和歌をひとつ残していく。

「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月」

この和歌を聞いた性空上人は、この歌に感心し、一行を呼び戻して

丁重に教えを説いた、というものだ。

しかしこの話には、矛盾がある。

和泉式部が上東門院に仕えたのは、1008~1011年頃。

性空上人が亡くなったのは、1007年である。

もしこの年代に間違いがないのなら、この2人が出会うことはない。

しかし証拠となる、歌は残っている。

ではどこが間違っているのか?

恐らくは、和泉式部が性空上人を訪ねた状況ではないだろうか。

上東門院と一緒に訪ねたのではなく、全く個人で訪ねたのではないか。

ではどのタイミングで?

そもそも、彼女が高名な僧侶である性空上人に、教えを請いたい思ったのは、

彼女の人生のどのタイミングだったのか?

いくつか挙げてみる。

ひとつ、最初の夫と不仲になり別れた時。

ひとつ、生まれた子供を捨てざるを得なかった時。

ひとつ、身分違いの恋を咎められ、実家に絶縁された時。

ひとつ、その恋の相手が死んだ時。

性空上人が生きているうちに、和泉式部に起こった事である。

……こうやってみると、なかなか波瀾万丈の人生を送っている。

この中で、一番それらしいものは、やはり捨て子の件だろう。

これが一番、彼女の心に重くのしかかりそうだ。

小式部内侍を捨てたことにより、和泉式部は激しい罪の意識にとらわれる。

その罪の意識から、救いを求めるように性空上人を訪ねた。

この時に、現在に伝わっている説話のやりとりがあった。

そういうことではないだろうか?

小式部内侍が若くして亡くなった後、和泉式部が彼女を悼み

哀傷歌を残しているのは有名な話だ。

かつての捨て子の件があっただけに、とくに小式部内侍に対しては、

思うことも多かったのだろう。

「浮かれ女」や「恋多き女」などといわれている彼女だが、

これは倫理観が欠如しているというよりも、

愛情が過多だったということなのかもしれない。

男性に関しては、移り気に思える彼女も、自分の娘に対しては生涯愛情を

持ち続けていた。

和泉式部と播磨の関係を追い、検証すれば、

そこに彼女の娘への愛情が浮かび上がる。

和泉式部にとって播磨とは、最愛の娘との思い出の舞台だったに違いない

……ことわっておくが、捨て子の件も書写山の件も、あくまでも伝説だ。

それを歴史に照らし合わせ、事実のように検証した。

ここに書いた話は、正史ではない、ということだけご了承あれ。

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