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加藤唐九郎

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愛知県瀬戸市には、いくつか特徴がある。

もちろん一番の特徴は、瀬戸市が焼き物の町である、ということだ。

これについては、誰しもが認めるところだろう。

もうひとつ、町をまわってみると、やけに「加藤」姓が多い。

もちろん一般家庭の姓にも多いのだろうが、

町中で見かける看板にも「加藤」の文字が目につく。

それこそ、一度気にしだすと、そこにも、ここにも「加藤」の文字が目につく。

この瀬戸の町で、陶祖として祀られているのは「藤四郎」。

正式には「加藤四郎景正」。

これも加藤姓だ。

今回、取り上げる加藤唐九郎も、瀬戸市出身の「加藤」の姓を持つ1人だ。

加藤唐九郎は、陶芸界のビッグネームだ。

焼き物の町、瀬戸に生まれ、ごく当たり前のように陶芸の世界に入った。

唐九郎が普通の陶芸家と違っていたのは、

研究者としての性格が強かったことだろう。

彼は、瀬戸の古窯を研究することに没頭した。

山中を巡り、古窯を調べ、陶片を集めた。

かれはそれらを、カードを使った独自の手法でまとめていった。

これらが後に、「陶器大辞典」を発行する際の重要なデータになる。

だが、その研究心は、とんでもない問題も引き起こした。

昭和8年に発行した「黄瀬戸」の中で、

瀬戸の町で、陶祖としてあがめられている、「加藤四郎景正」の存在を

疑問視し、存在していたとしても開祖ではない、としたのである。

これは、多分に唐九郎の科学者的性格によるものだろう。

加藤四郎景正については、その最古の資料ですら、江戸時代のものだ。

彼の生きた時代からは、数百年の隔たりがある。

当時、すでに伝説となっていたものを、

文章化しただけの資料である可能性もある。

一般には、曹洞宗をひらいた道元と南宋に行き、5年後に帰国、

全国を流浪の後、瀬戸で製陶に適した土を見つけ、

ここに窯をひらいたとされている。

全国流浪の段は、いかにも後世の創作めいているが、

道元と入宋したとなっている点、5年後に帰国したと、

細かい数字が出ている点は、それなりにリアリティがある。

ただ、これだけの資料しかないのでは、唐九郎がその存在を疑問視したのも、

もっともな話だ。

事実、この加藤四郎景正の生きていた時代よりも、

前時代のものと思われる、発掘結果も出ている。

そうなると、古窯を発掘し、陶片を研究していた唐九郎が、

加藤四郎景正の存在に疑問を持つのも、当たり前だろう。

しかし当時の瀬戸の陶人達は、これを許さなかった。

陶祖、加藤四郎景正への冒涜であるとして、問題の「黄瀬戸」を、

陶彦神社前で燃やすという事件が起こったのだ。

世に言う、焚書事件だ。

しかもそれだけでは終わらなかった。

これにより、唐九郎は自宅を焼き討ちされてしまうのである。

こうなってくると、藤四郎を尊敬しているというよりは、一種の宗教だ。

この事件によって、唐九郎は生まれ育った瀬戸の町を、追われることになる。

普通の陶芸家なら、これだけでも大事件だ。

しかし唐九郎は、さらにとんでもない事件を引き起こす。

加藤唐九郎を語る上で避けて通ることのできない、「永仁の壷事件」だ。

事件について簡単に説明する。

昭和18年、松留古窯出土品として、永仁二年の銘をもつ壷が発表される。

文部省文化財調査官、小山富士夫の尽力によって、

この壷は昭和34年、国宝に指定された。

しかし翌年、「おかしいのでは?」という疑問の声があがり、

マスコミ各社によって、この疑惑が大きく報道された。

この壷について、唐九郎は自作の壷であると告白。

壷は国宝を取り消され、唐九郎も一切の公職を辞職、

さらに無形文化財有資格者の認定も、取り消されてしまう。

以降、唐九郎は作陶に没頭することになった。

以上だ。

どう表現すればいいのだろうか?

贋作事件か、といえば何かに似せて作ったものではない。

かといって、たしかに永仁二年の銘を入れ、時代をごまかしている。

とはいえ、確かに名品であるが故に、国宝に認定された。

では永仁二年の銘がなければ、この作品には価値がなかったのか?

様々な疑問を投げかける事件だ。

一番面目をなくしたのは、小山富士夫だ。

彼はこの一件の責任を取り、一切の公職から退いた。

そして彼もまた、唐九郎と同じように、作陶一筋の人生を送ることになる。

ひとつの事件の、いわば加害者と被害者が、同じような道をたどっている。

なんとも皮肉なことだ。

この事件については、謎も多い。

まず本当に、永仁の壷を唐九郎が作ったのか?

実は彼の長男、加藤嶺男が永仁の壷を作ったのは自分だと、告白している。

つまり、父と息子、どちらもが壷を作ったと告白しているのだ。

さらに何故、この壷を作ったのか?

一説によれば、戦時中、ある新興宗教のご神体とするために

この壷の製作を、唐九郎が依頼されたという話がある。

それが結局、新興宗教は立ち上がらず、壷だけが残ることになった。

それが回り回って、このような形で世の中に出た、という話である。

諸説あるが、事実は明らかになっていない。

この加藤唐九郎、あるマンガのキャラクターのモデルになっている。

「美味しんぼ」に出てくる「唐山陶人」がそれだ。

加藤唐九郎の写真と見比べても、モデルになっているのが一目で分かる。

作中では、「唐山陶人」は北大路魯山人の弟子、ということになっている。

北大路魯山人は実在の人物だが、実は加藤唐九郎とも関係が深い。

魯山人が鎌倉に自分の窯を作った際、どうもその窯がうまくいかなかった。

そこで唐九郎を呼んで、見てもらった。

唐九郎は窯の問題点を見抜き、直してやった。

そう、加藤唐九郎は、魯山人にとっては師匠と言える人物だったのだ。

加藤唐九郎は、その人生で何冊かの本を書いている。

その晩年に書かれたものは、彼の陶芸観を書き記したものだ。

その中で彼は、飾らない言葉で、朴訥と語る。

その言葉の端々には、作陶への情熱と、彼の研究心があふれている。

もし、どこかで唐九郎の作品を目にすることがあったら、

彼の波乱に満ちた人生に、思いを馳せてみてほしい。

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