前回、六古窯について書いた。
そのほとんどが、猿投古窯の流れを汲むものだった。
しかしその中にひとつ、全く猿投の血を引かない異端児がいる。
備前焼だ。
今回は重厚かつ無骨、そこに誇りすら感じさせる、
この焼き物について書いていく。
備前焼は岡山県備前市で焼かれる、炉器(せっき)だ。
炉器とは、土器よりもさらに高温で焼き締めたもので、
古墳時代に作られていた須恵器なども、炉器になる。
備前はもともとこの須恵器を焼いていた窯だった。
炉器を焼き続けているうちに、還元炎焼成で焼く須恵器から
酸化炎焼成で焼く備前焼へと変わっていった。
還元炎焼成で焼けは、器肌は青みを帯びた色になるが、
酸化炎焼成で焼けば、器肌は赤みを帯びた、備前焼のそれになる。
備前焼の特徴である赤みを帯びた器肌は、こうして誕生した。
備前焼の最大の特徴は、一切の釉薬を使わないことだ。
これは備前の土が、釉薬と相性が良くなかったことが原因だ。
一時、釉薬について研究し、釉薬を使った備前焼も作られたが、
結局は定着せず、自然消滅している。
そのため備前では、無理に釉薬を使うこと無く、
焼き締めの技術のみで、独特の美しさを作り上げた。
その中で、火襷や牡丹餅などという備前独自の技術も生まれた。
ちなみに釉薬を使った備前焼は白備前と呼ばれ、
希少価値から値段は暴騰している。
だがこれは、備前本来の美しさとは全くの別物である。
備前も、常滑と同じく一般庶民のための雑器を焼いていた。
特に頑丈なことで有名で、落としても割れることがなかったという。
この頑丈さは、徹底的に焼き締めているためで、
かつての備前焼を知っている人にいわせれば、
最近の備前焼は焼きが甘いと言う。
現在でも10日以上の時間をかけて焼成しているが、
かつては40~60日もかけて焼成していた。
ほぼ2ヶ月間、燃やしっぱなしというのはただ事ではない。
昔の窯の熱効率が悪かったとしても、それを補ってあまりあるほどの
焼き締めぶりである。
そんな備前焼だが、戦国時代に詫びた風合いの茶器が流行った際には
備前焼もこの例に漏れず、茶器の製作が盛んになった。
しかし江戸時代に入り、流行が去ると茶器は作られなくなり、
再び雑器の製造に専念するようになった。
が、時代が進むごとに業績は悪化し、明治維新にいたり
国内文化軽視の風潮が強まると、いよいよ備前焼は窮地に立つ。
規模が最も縮小した時期には、陶工の数が30人程度までに激減してしまう。
この窮地を救う転換点になったのが、柳宗悦の「民芸運動」だった。
これは日常の生活の中で使われている、素朴な手作りの日用品の中に
「用の美」を見いだそうという運動で、この「民芸運動」により
備前焼は復活のきっかけをつかむ。
そして昭和初期にいたり、金重陶陽が「桃山陶への回帰」を打ち出し、
備前焼は再び全国にその名を売り出したのだ。
これにより、備前焼は現在の繁栄を勝ち取ることになる。
まさに金重陶陽こそは、備前焼の中興の粗である。
現在では酒器、茶器、皿、雑器などを多く製作しており、
使い込むほどに風合いが出る、と人気を博している。
これは器肌が、他の陶器に比べて荒いため、使っているうちに凹凸が削られ、
滑らかに変化していくためである。
まさに、人と同じように成長していく焼き物なのだ。
さらに硬く焼き締められ、壊れにくいという点も長く使っていく上では
有利だろう。
こういう特徴を持っている以上、茶器や酒器、皿などの日常使いのものとして
使っていきたい焼き物だ。
長年にわたり使い込んだ備前焼には、金には換えられない愛着が湧くだろう。
それこそが、民芸備前の真骨頂だ。