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21世紀の先住民〜その2

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前回、インド東部・ベンガル湾に浮かぶ孤島、
北センチネル島に暮らしているセンチネル族という先住民について書いた。

彼らは72㎢ほどの広さの、ほぼジャングルに覆われた島で暮らし、
島外の人間との接触を完全に拒んできた。
島の人々が使っているセンチネル語は
その地域の、他の部族たちが使っている言語とは大きく異なっており、
現在では、言語を通じてのコミュニケーションがとれないという。
そのため、島の中で営まれている「暮らし」については
確かな情報というものが存在しておらず、
恐らくは、石器時代のそれに近い暮らしをしているのではないか?と
考えられている。
北センチネル島の先住民たちは、島外から来るものに対しては容赦がない。
やって来た理由如何に関わらず、弓矢や槍で攻撃を仕掛けてくる。
2006年には、カニの密漁をしていたインド人漁師が2人、
寝ているうちにボートが流され、この島に漂着した結果、
矢で射られて殺害されてしまう事件が起こっているし、
今年の11月半ばには、島にキリスト教を布教すべく上陸した
(この上陸自体が禁を破ったものだったらしい)アメリカ人宣教師の男性が
同じように殺害されて砂浜に埋められている。

法的なことを言えば、これらの事件は島民による
殺人事件ということになるのだろうが、
漁師の一件でも、アメリカ人宣教師の一件でも、
被害者の遺体を回収することも出来ず、
(遺体を回収するためにヘリコプターで島に近付くと、
 弓矢を使って攻撃を仕掛けてくるらしい)
それらの事件については、全く放置されている。
領海的には、この北センチネル島は
インドの一部ということになっているらしいが、
インド政府もこの島については一切の立ち入りを禁止して、
この島だけ一種の「自治領」的というか、
「治外法権」的な扱いをしているようだ。

人類の歴史を考えれば、現代というのは
人々が最もひとまとまりになり、繋がり、文明化している時代である。
もちろん、国によって差異はあるものの、
情報というものはある程度共有化され、世界中の人々は
自らが属している「社会」「世界」というものを知って、暮らしているわけだ。
そういう「社会」「世界」の中において、
このセンチネル族のように、他者、他部族との繋がりを持たず、
文明というものに背を向けて生きている人々が存在している。
彼らは、そのほとんど全てが「部族」というコミュニティーのみでの
生活をしており、我々の社会との繋がりを持たず、
いわば孤立した状態で生きている。
こういった、未接触部族、あるいは孤立部族は現在、
地球上に100以上存在していると考えられている。
彼らは、このセンチネル族の場合と同じように、
彼らの住んでいる場所の自治体から、「保護」されて生活している。
「保護」とはいっても、具体的に何かしらの生活の援助を
受けているわけではなく、ただ、彼らの住んでいる生活域に
「立ち入り禁止」などの法的な措置を与えて、
彼らが彼らの生活を維持してくだけの場所を保証しているわけだ。

さて、ここで改めて言及しておかなければならないことがある。
前回、そして今回と、我々の文明を拒絶して生きている彼ら先住民たちを
非文明的という風に書くこともあるが、
これは彼らが文明を持っていないという意味ではない。
あくまでも我々の「現代文明」に属していないというだけで、
彼らには彼らだけの「文明」「文化」というものが存在している。
彼らは彼らのコミュニティーの中で、恐らくはルールを守り、
彼ら自身の「文化」をもって生活している。
我々の「文化」と、彼らの「文化」を引き比べて
どちらが優れ、どちらが劣っているなどという評価を
軽々に述べることはできない。
一個の隔絶した社会の中で、「文明」「文化」を持っているのだとすれば、
それは我々の「文明」「文化」と同じ意味を持つといえるだろう。

さて、ここで少し考えてみたいことがある。
「仮に」という、いわば仮定の話になるのであるが、
もし、彼ら先住民たちの子供(それも赤ん坊)を引き取って、
我々の社会の中で、我々の一般的な教育等を授けて育てた場合、
その子供は、一体どんな風に育つであろうか?
この質問に対する答えは1つだろう。
すなわち、我々と同じような、我々の文明に適応した人間に育つはずである。
逆のパターンも考えてみよう。
我々の社会で生まれた子供(やはり赤ん坊)を、
彼らに預けて、彼らにその生育を任せて育てた場合、
その子供は、一体どんな風に育つであろうか?
この質問に対する答えも1つで、やはりその子供は、
彼ら先住民の暮らしに適応した先住民になるはずである。
我々も、彼ら先住民も、同じ「ヒト」という種である限り、
当然、そうなるであろうし、そうなると考えるのが自然である。

前回も書いた通り、先住民部族の1つセンチネル族は、
現代において尚、石器時代の面影を残しているという。
詰まる所、石器時代の人間とあまり変わっていないと受け取っても良いだろう。
我々と彼らが、その根本の所において変わらないというのであれば、
当然、我々もまた石器時代の人間と、あまり変わらないということになる。
つまりヒトは、石器時代からの数千年間、
その本質的な部分において、全くといっていいほど
進化していないということになる。

だが、我々の「文化」「文明」は、石器時代のそれに比べると
明らかに進歩している。
「ヒト」そのものは進化せず、その「ヒト」の作り出した
「文化」「文明」だけがドンドンと進化して、現在に至る。
この「文化」「文明」というものは、「ヒト」には内包されていない。
いわば「ヒト」が、自らの外で積み重ね、磨き続けてきたモノで、
「ヒト」と他の動物を分けるモノでありながら、
「ヒト」の中には全く染み込んでいない。
「ヒト」は、現代の「文化」「文明」の中で育てられてこそ、
「文明人」と呼ばれるにふさわしい存在になるのであって、
そこから外れてしまえば、「ヒト」は石器時代か、
あるいはそれよりもずっと原始的な時代の存在にしかなれないのである。

「ヒト」の進化とは、すなわち「文化」「文明」の進化で、
そしてそれは、「ヒト」の中に内包されていない。
だから、ほんのわずかのボタンの掛け違いによって「ヒト」が
そこから切り離されれば、「ヒト」はたちまち原始に戻ってしまう。
そういう意味からすれば、「文化」「文明」というものは
砂上の楼閣にも等しく、もし何らかの理由で「ヒト」の社会と
それが切り離されることがあれば、
これまでの「ヒト」の繁栄は嘘のように消えさえり、
世は再び、原始の「ヒト」の世に戻ってしまうということになるわけだ。
(ここら辺りは、あくまでもSF的な仮定になるが……)
だとすれば、「ヒト」の「文化」「文明」というものは
なんと儚く、不確かなことだろうか。
そして、そのハッキリとした実態を持たない「文化」「文明」の中で
育まれなければ、文明人になることすら出来ない「ヒト」という生物もまた、
同様に儚く、不確かな存在である。

現代文明に浸り切った我々と、それを拒んで暮らす先住民。
両者の差は大きいようでいて、実のところ、内実的にはほとんど変わりがない。

ここら辺りが「ヒト」という種の、面白い所だ。

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