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味噌〜その3

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前回、「醤」「豉」「未醤」「比之保」という
様々な発酵調味料群の中から、「味噌」が登場するまでを書いた。
今回は、「味噌」のその後の歴史と、
自家製「大葉味噌」の調理について書いていく。

平安時代、各種発酵調味料の中から「味噌」が誕生した。
正確に言えば、誕生したというよりは、
様々な発酵調味料が統合され、洗練され、
「味噌」という名前に落ち着いたといったほうがいいかもしれない。

この「味噌」の名前の由来となったのが、先に挙げたうちの「未醤」である。
「醤」は「醤油」と同じ文字が使われており、
「比之保(ひしお)」は後に「醤」の読み方として統合された。
これらの事実を踏まえて考えると、「醤」も「比之保」も
「味噌」というよりは「醤油」に近い性格を持っていたのかも知れない。
残る「豉」は、日本では「くき」と呼ばれており、
これの元となった中国の「豉」は、大豆をすりつぶし、
塩を加えて発酵させるというその製法から見て、
現代の「味噌」に近いものではないかと思われたのだが、
どういうわけか、これは歴史の中できれいに消え去ってしまい、
全く残っていない。
「味噌」の名前の由来になったとされる「未醤(みしょう)」は、
現在でいう所の「もろみ」に近いものであったらしく、
これがより水分を失う形で変化し、名前も「みしょう」→「みそ」へと
変わったということになる。
その変化が、純粋な「未醤」のみの変化であったのか、
「豉」と入り混じり、統合されるような変化だったのかは分からない。
ともかく、名前については「未醤」が元となっているのは
確実であろうと考えられている。

現在でこそ「味噌」は、その大半を「みそ汁」という形で消費されているが、
もともとの「味噌」は、それ自体を食べるものであった。
いわば、現代でいう所の「おかず味噌」である。
(自分が今回、作ろうとしている「大葉味噌」もまた、
 この「おかず味噌」にあたる)
現代のような「みそ汁」としての使い方が始まったのは、
鎌倉時代のことである。
もちろん、それまでのような「おかず味噌」としての使用が
無くなったわけではない。
「みそ汁」としての利用と、「おかず味噌」としての利用は、
全く並行して続いていた。
吉田兼好の記した「徒然草」の中には、
鎌倉幕府5代執権・北条時頼が、部下と「味噌」を嘗めながら
酒を飲んだというエピソードが書かれており、
「味噌」を食べるというのは、武士階級の間では
ごく一般的なことであったということが分かる。

では、何故この時代に、「みそ汁」という食べ方が広まったのだろうか?
調べてみると、どうもこれは武士階級から始まったことらしい。
戦などで出陣している場合、大鍋さえあれば「みそ汁」は簡単に調理できる。
多人数分の食事を用意する場合、これは大きなメリットであっただろう。
また、「みそ汁」は液体状なので、時間がない場合にはご飯にぶっかけ、
「汁かけ飯」にして一気にかき込むことも出来る。
食事の時間自体を、大幅に短縮することも出来たのである。
多人数分の調理が容易で、食べる時間も短縮できる。
まさに戦に明け暮れる、武士に適した調理方法である。

室町時代になり、大豆の生産量が増えてくると、
「味噌」は、庶民階層へと一気に広まっていくことになる。
仏教の影響によって、動物性タンパク質が不足しがちだった
当時の日本人にとって「味噌」は、
これに変わるタンパク源となったのである。
下級武士の間では、亭主が大鍋に「みそ汁」を作り、
それを集まった仲間たちが持参した飯にぶっかけて食べるという
「汁講」なる催しも頻繁に開催された。
現代人の感覚でいえば、ホームパーティーの「みそ汁」版とでも言おうか。
ひょっとしたら、東北地方などに残る「芋煮会」などは、
この「汁講」の現代版といえるのかも知れない。

戦国時代になると、全国の戦国武将たちが戦陣での食料とすべく、
「味噌」の生産を奨励した。
高名な戦国武将の出身地を見てみれば、
それぞれにブランド化された「味噌」が見つかるということも少なくない。
それらの「味噌」が、すべて戦国武将の手によるものではないだろうが、
伊達政宗と「仙台味噌」など、密接な関わりのある「味噌」もある。

江戸時代に入り、世の中が安定してくると、
庶民階層でも「味噌」の使用量はグッと増加することになる。
大都市部では、味噌問屋が立ち並び、「味噌」の販売を一手に担っていたが、
これはあくまでも一部の都市部だけでのことで、
日本の大部分では、「味噌」というのは店で買ってくるものではなく、
自家製造にて作るものであった。
人に自慢することを「手前味噌」という言い方をすることがあるが、
これなどは「味噌」が当時、自家製造が当たり前のものであり、
それぞれの家庭が、その味を自慢しあっていたことが元となっている。

明治時代に入り、西洋の食文化が入ってくるようになっても、
「味噌」の消費量が落ちることはなかった。
もとより、西洋の食文化が入ってきたといっても、
それはあくまでも、レストランなどで食べることが出来るようになった
というだけのことであり、家庭での食事は、
江戸時代以来の麦飯にみそ汁というのが、続いていたからである。
日本の大部分を占める農村部では、
相変わらず庶民は「味噌」を自家製造して、これを食べており、
日々の生活に必要なタンパク質のかなりの部分を、
「味噌」から得ている状況だった。

明治時代後期から昭和初期にかけて、
日本は対外戦争に突入していくことになるが、
そのころの軍の食事にも、「みそ汁」が取り入れられていた。
当時の軍の調理要項には、「みそ汁」の作り方について
細かい設定がなされており、軍の「みそ汁」に対するこだわりが見える。

状況が大きく変わったのが、戦後のことである。
戦後の厳しい食料不足のおり、これを解決すべく
大量の小麦と脱脂粉乳が日本へと持ち込まれた。
これらは学校給食という形で、子供たちに提供されることになり、
全国的に若い世代から、西洋食文化に傾倒し始めることになる。
これらの子供が大きくなり、家庭での西洋食の割合が多くなったことで、
「みそ汁」及び「味噌」そのものの消費量も
減少の一途をたどることになるのである。
ただ、現在では「和食」自体が、1つの健康食として
見直されたこともあり、その消費量は年40万tペースで落ち着いている。

さて、話を自家製「大葉味噌」の方に移そう。
とりあえず、前々回に決めた通り、自家製「大葉味噌」作りには
「豆味噌」を用いることに決め、これをスーパーで購入して来た。
まず、小型の擂り鉢の中に、おおさじ3~4杯分の「豆味噌」を入れ、
さらに大さじ1杯分の砂糖をいれる。
これに、庭から収穫して来た10枚前後の大葉を、みじん切りにして加え、
小さなすりこぎで丁寧に混ぜ合わせていく。
意外と「豆味噌」が軟らかいので、特に水などは加えない。
5分ほどしっかりと混ぜ合わせると、
擂り鉢の中の材料は均等に混ざっていた。
その質感と色は、まるでチョコレートクリームのようだが、
ぷーんと漂う強烈な味噌の香りが、そのイメージをぶち壊す。
驚いたことに、結構、大量に加えたはずの大葉の香りがほとんどしない。
強烈な「味噌」の香りに、完全に負けてしまっているのだ。

改めて麦飯を用意して、これに作った「大葉味噌」をひとすくい乗せて
ご飯と一緒に口の中に放り込んでみる。
さすがに口の中で咀嚼すれば、味噌の中に隠れていた大葉の香りが
しっかりとその存在をアピールしてくる。
「豆味噌」の塩辛さも、砂糖を加えたことに穏やかに抑えられており、
飯のおかずとしては、ちょうどいい塩梅であった。

さて、3回にわたって、自家製の「大葉味噌」を作るかたわら、
「味噌」の種類や、その歴史について書いてきた。

現在では、「味噌」を使った料理といえば、
まず「みそ汁」が思い浮かぶが、自分のような一人暮らしだと、
なかなかこれを作ってみようという気持ちも少なくなる。
やはり、先に述べた通り、「みそ汁」というのは
大人数分をまとめて作るのに適した調理方法で、
改めて1人分だけを作る、ということになると返って面倒くさいものだ。
そういう場合、今回、自分が作ったような「嘗め味噌」、
いわゆる「おかず味噌」の方が、作り置きも出来て便利なものである。

核家族化や孤食が叫ばれる現在、「味噌」を使った料理にも
時代に適した変化が求められているのかも知れない。

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