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歴史 雑感、考察

忍者の系譜〜その2 忍術を受け継ぐもの。

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前回、古代中国に始まった忍者の系譜が、
「孫子」とともに日本に渡り、
聖徳太子の手によって、日本で芽吹くまでを追った。
今回は、聖徳太子以降の忍者の系譜について書いていく。

聖徳太子の時代から70年の後、
「壬申の乱」と呼ばれる、事件が起こった。
天智天皇の弟・大海人皇子が、
甥である弘文天皇に対し反乱を起こし、
これを殺して、天武天皇になったという事件だ。
この事件の背景が、またドロドロとしているのだが、
今回はそこの言及はしない。
問題は、この天武天皇が、「多胡弥(たこや)」と呼ばれる
間諜を使っていたということである。
これは、天武天皇が天皇になる前、
大海人皇子と呼ばれていたころからのことだったという。
と、いうことは、「壬申の乱」においても、
この「多胡弥」の働きがあったと考えるのが自然だ。
そういう意味で「多胡弥」は、
我が国で初めて、戦争で活躍した忍者ということになる。

大海人皇子は、兄・天智天皇が息子・大友皇子を
皇太子に指名した際、出家して吉野宮に下った。
後に、天智天皇が亡くなったのを期に反乱を起こし、
天皇の座につくわけだが、この身のかわし方自体、
彼がかなりの策略家であることを臭わせる。
ひょっとしたら、この時点ですでに「孫子」を読んで、
その兵法を自分のものにしていたのかもしれない。
だとすれば、「孫子」の中に書かれている
間諜(スパイ)の使い方、「用間」にも通じていたはずだ。
だからこそ「多胡弥」を使ったのだろう。
大海人皇子が吉野にいた時に、
「多胡弥」を使って、後の反乱のための
下準備をしていたことは、充分に考えられる。

この天武天皇の「多胡弥」の後、
しばらくの間、権力者による忍者の使用は見られない。
「孫子」によって日本に持ち込まれた「用間」という、
忍者の系譜はどこにいったのか?

ここで、この「孫子」について目をやってみる。
この「孫子」、仏教の経典輸入の際に、
その経典と一緒に入ってきた、というのが自分の考えだ。
事実、日本で最初の忍者を使った聖徳太子は、
熱心な仏教信者であり、仏教布教者であった。
また、彼の次に忍者を使ったとされる天武天皇も、
天智天皇の皇太子指名の際に、剃髪して寺に入っている。
こうしてみると、このころの「忍者」と、「仏教」の間には、
密接な繋がりがあったことがうかがわれる。

このころの「仏教」は、日本古来の「神道」との、
権力・勢力争いに血道を上げていた。
「孫子」は仏教側にあり、
それは「忍者」も仏教とともにあったことになる。

しかし、「仏教」対「神道」で対立している日本に、
新たな第3の勢力が誕生する。
それが「修験道」である。
これは日本独自の山岳信仰と、仏教が結びついたもので、
日本で最初の神仏習合の信仰であった。
当時の仏教は、貴族間での信仰が主で、
多くの一般大衆は、日本古来の神道を支持していた。
修験道は、この一般大衆に仏教を広めるため、
仏教と神道の混合を図ったもので、
役小角によってひらかれた。
もともとが、一般大衆に仏教を広めるためのものなので、
勢い「修験道」では、仏教の比率が多くなっている。
しかし、この第3勢力「修験道」は
当初、国から敵視され、攻撃の対象となった。
仏教側からも、神道側からも敵視されていたのだ。
ただ、一般大衆からの支持は厚く、
「修験道」は国からの攻撃を受けながらも、
その支持を広げていった。

彼らは国によって攻撃され、
実際に兵を差し向けられることも多かった。
「修験道」の山伏たちは山に籠り、
圧倒的な数の兵士と戦わなければならなかった。
もともと山岳信仰であった「修験道」の山伏たちにとって、
山は自分たちのホームグラウンドである。
彼らは少ない兵で、大軍と渡り合った。
さて、ここで思い出してほしい。
あの「孫子」は、日本に入ってきて以来、
常に仏教とともにあった。
「修験道」には、その仏教が色濃く含まれている。
ひょっとすると山伏たちは、
仏教とともにあった「孫子」を我がものとし、
自らの闘争に生かしていたのではないか。
だからこそ、数の上では圧倒的に不利でありながらも、
彼らは戦い抜くことが出来たのではないか。
だとすれば、当然、彼らは「用間」についても知悉していて、
これを最大限に利用していたはずだ。
だとすれば、この時期、
「忍者」の系譜は、「修験道」の中に
息づいていたことになる。

やがて、「修験道」のいう神仏習合が、
国中に仏教を広げていく、有効な手段であることを認め、
国を挙げて神仏習合を押し進めることになる。
これにより「修験道」は公式に認められ、
日本各地の山岳に、その霊場をひらくことになるのである。

やがて時代は平安末期に至る。
源氏、平家をはじめとする武家が力を持ち、
天下に戦乱の兆しが現れる。
そんな時代、1人の英雄が時代の中に踊り出た。
源義経である。

彼は幼少時の名を牛若丸といい、
鞍馬山の鞍馬寺に預けられていた。
このころに、義経は僧正ヶ谷の天狗たちに、
武芸と兵法を習ったとされる。
もちろん天狗などという物怪が、いるわけがない。
これは間違いなく「修験道」の山伏たちであろう。
これをごまかすためか、
あるいは自らを怪しく演出することによって、
山伏の力を誇示しようとしたのかもしれない。
しかし、絵本などで見る天狗やカラス天狗は、
顔を人間に変え、羽根を取り去れば、
どう見ても山伏の格好をしている。
もしかすると、当時の人々にしてみれば、
義経の背後に山伏たちがいたことは、
バレバレだったのかもしれない。
義経が習ったとされる「鞍馬八流」は、
日本最古の剣術流派であるが、その特徴は跳躍にある。
剣術の特徴としては、極めて異質である。
むしろ、山伏流忍術から剣の技術のみを
抜き出したものかもしれない。

義経には、伊勢三郎義盛という部下がいた。
彼は、元は伊賀生まれの山賊の首領であった。
彼は義経によって討伐され、その軍門に下った。
そして彼は、義経の下で、
忍者的な性質を持った部下として活躍するのである。
義経自身に、山伏から習った山伏流忍術があったことから、
彼は義経に「忍者」として再教育され、
その部下共々、義経の忍者となったのだろう。
もともと山賊であったため、その部下共々、
忍者としての素養があったのかもしれない。

今回は、聖徳太子の後から、源義経に至るまでの
忍者の系譜を追った。
次回はさらに時代を下っていく。

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