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忍者の系譜〜その1 忍者はどこから来たのか。

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「忍者」と聞いて、何をイメージするかは、
年代によって大きく異なっている。
現在の子供たちは、「NARUTO ナルト」を
思い浮かべるだろうし、
自分などは「忍者ハットリくん」である。
自分より上の年代の人は、
「サスケ」や「仮面の忍者 赤影」だろうか。

どれもマンガじゃねーか、と突っ込まれそうだが、
実際問題、忍者に夢中になるのは、子供のうちだろう。
一部の好事家や、時代劇愛好家でもない限り、
いい大人が忍者に夢中、などということはない。
従って、普通の人が忍者に憧れるのは、
子供のころだけ、ということになる。
そうなるとその先は、子供の身の回りにある、
「忍者マンガ」ということになる。

先に挙げた忍者マンガを見ると、
自分の世代の「忍者ハットリくん」が、
のどかなギャグマンガなのに対し、
上の世代と、現在の子供たちの見ている忍者マンガは、
殺伐としているというか、戦ってばかりいるというか、
そういうマンガばかりである。
どうも、現代人にとって「忍者」というのは、
素早い動きと、身軽な身体、さらには怪しげな術を使って、
敵と戦う者というイメージのようだ。
そういう意味では、あまり戦いと縁のなかった
「忍者ハットリくん」は、忍者マンガの中でも、
異質な存在だったといえる。

この「忍者」。
我々がイメージするのは、戦国時代劇か、
江戸時代劇に出てくるものだ。
幕末時代劇には、忍者など欠片も出て来ない。
唯一の例外として、映画「ラスト・サムライ」に、
忍者が出てきたが、監督がどんな日本通であっても、
所詮は外国人。
その辺りの違和感には、気づかなかったのだろう。
ちょっとでも、日本の時代劇を見慣れている人間なら、
幕末を舞台にした時代劇に「忍者」が出てくると、
強烈な違和感を感じるはずだ。
幕末には、すでにいなくなっていた忍者。
彼らは、いつごろから活躍していたのだろうか?

今回は、この「忍者」の系譜について書いていきたい。

忍者の祖先を辿っていくと、
日本を飛び出し、古代中国へとたどり着く。
中国ではスパイのことを「間」というが、
これは黄帝の時代からいたとされている。
具体的には、紀元前2300年ごろのことだ。
よく、中国4000年の歴史、などというが、
これよりも前の時代から、中国にはスパイがいたのだ。
この「間」について、始めて文章の中で論及しているのが、
孫武の書いた「孫子」である。
「間」を使うことを「用間」とし、
これを使い、情報を収集したり、
謀略を行なったりすることの重要性を書いている。
これこそが、「忍者」の大元である。

これが日本に入ってきた。
どの時代かは、わからない。
公式記録では、奈良時代に吉備真備が、
日本に持ち帰ったことになっている。
彼は遣唐使として、18年間の留学の末、
734年に帰朝している。
このときに、「孫子」を持ち帰ったというのが、
公式的な「孫子」の初輸入である。
ただ「孫子」が書かれたのは、
紀元前500年あたりのことだ。
つまり、吉備真備が出てくる1200年も前に、
すでに「孫子」は存在していたのである。
これが、この長い間に、
全く入って来なかったのだろうか?

考えてみれば、この吉備真備以前に、
日本は中国からある「モノ」を輸入している。
そう、「仏教」である。
時代でいえば、聖徳太子のころの話だ。
彼は、非常に熱心な仏教の布教者で、
いくつもの仏教寺院を建立している。
それだけでなく、仏教の輸入に合わせ、
中国から数々の経典を取り寄せているのだ。
このときに持ち込まれた経典の中に、
経典以外のものも、混じっていたのではないだろうか?
せっかく経典を取り寄せるために船を出すのだから、
この際、経典以外の役に立つ書物も、
併せて持ち込もうと考えても、不思議ではあるまい。
と、なると、その持ち込まれた書物の中に、
高名な「孫子」が入っていたとしても、おかしくはないし、
むしろ当然、入っているべき書物である。

では、聖徳太子の時代に「孫子」が入ってきたとする。
これに目を付けるのは誰か?
経典、その他を取り寄せた、聖徳太子本人ではないか?
そもそも、中国の書物を読めるほどの知識人が、
それほど数多くいたとも思えない。
なんといっても、当時の日本には「文字」というもの自体が、
全く未知の文化だったからだ。
これを読めるのも、まず聖徳太子だったのではないか?
そうなると、経典大量輸入時代にあって、
経典とともに取り寄せた「孫子」を読んだのは、
聖徳太子だったと考えられる。
そこに書いてあった「用間」を、
使ってみようという気になっても、おかしくはない。

調べてみると、聖徳太子には、
日本で始めて「忍者」を使ったという伝説が残っている。
この忍者を「志能便(しのび)」といい、
大伴細人なる人物が、この役目を務めていたとされる。
もちろんこれは、たった1人しかいないものではなく、
ひとつの諜報機関だろう。
その代表、あるいは責任者が大伴細人だったと思われる。

聖徳太子が、独自の諜報機関を持っていたとすれば、
彼の超人伝説のいくつかが説明できる。

例えば、複数人の訴えを同時に聞き、これを聞き分け、
的確な指示を出したという話。
これはあらかじめ、もめ事が起こっているという情報を、
報告により、知っていたのではないだろうか?
だとすれば、あらかじめそれぞれへの解答を考え、
用意しておくことが出来る。
たとえ複数人が一度に喋ったとしても、
彼らが訴えていることは、
すでに報告によって、知っているのだ。
だから彼らの話を聞き分ける必要もない。
ひととおり喋らせた後に、あらかじめ用意しておいた解答を、
一人一人に聞かせればいいだけだ。

さらに聖徳太子は、馬に乗って空を飛び、富士山に登り、
そのまま長野をまわって、都に帰ってきたという。
これもあらかじめ、遠隔地に志能便を調査に赴かせ、
都から少し離れた場所で彼らに会い、報告を聞けばよい。
3日後に都に戻り、彼が富士山付近や長野の状況を
把握していることを知れば、
彼のまわりにいる人たちは、太子が3日の間に
富士山や長野を廻ってきたと考えるだろう。
常人では考えられぬほどのスピードだ。
だからこそ、馬が空を飛んだだの、
富士山に登っただのという「尾ひれ」がついたのだ。

こういう風に見ると、聖徳太子は「忍者」というよりは、
「忍者組織」の頭領といった方がいい。
後の忍者組織でいえば、「上忍」ということになる。
そういう意味でいえば、聖徳太子は日本初の、
忍者の頭領であったといえる。

第1回である今回は、中国より「忍者」という概念の輸入、
そしてそれを一番最初に形にした、聖徳太子について書いた。
次回は、奈良・平安時代から鎌倉時代にかけて、
どういうルーツを持って、「忍者」が引き継がれていったか、
その辺りについて書いていく。

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