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「大豆」 米と並ぶ日本の「食」

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「日本の穀物」といえば、まずコメである。
これはもう、100人いれば、
100人がそう答えるだろう。

ではそれに続くものは何だろう?
ということになると、これまた
100人いれば、100人が、
「大豆」と答えるだろう。

主食、副食という形をとる、日本の食習慣では、
まず、主食として食べられているコメが注目される。
そして副食の方には、
肉、魚、野菜など、色々なものがある。
このうち肉は、仏教の影響のによる「肉食禁止令」のため、
日本の食の歴史の中では、影が薄い。
残る魚と野菜だが、これは優劣がつけにくい。
日本は海に囲まれていることと、
全国くまなく、池や川が存在しているので、
魚介類の入手は容易かった。
また、野菜にしても、
絶望的なほど水のない場所は存在しないので、
日本全国、ほぼどこでも作ることが出来た。

しかし、これらの魚や野菜を上回るような勢いで、
日本人は大豆を食べてきた。
納豆、豆腐、味噌、醤油。
どれも日本の『食』を語る上では、
欠かせないものばかりである。

その消費量はかなりのもので、
2005年度の大豆消費量は、約535万tである。
ちなみに同じ年の米消費量が、約922万tなので、
米の半分以上の量を、消費していることになる。
ただ、大豆の場合、約430万tが大豆油用であり、
純粋に食用になる大豆は、約105万tである。
大豆油の中には、当然、食用にされるものも
含まれているので、食用にまわされる大豆は
正確には105万t以上であるといえる。

大豆は豆科の1年草だ。
丈は30~90cmで、茎は直立しており、
稀に頂部がツルになっていることもある。
夏、葉腋から短枝をだし、その先に白、
または紫紅色の小さな花をつける。
サヤは扁平で、短毛に覆われており、
中に1~4個の種子があり、熟すとサヤが裂ける。
色は緑、黄、黒または紫、赤褐色などがあるが、
日本で作られている大豆の大半は、黄大豆である。
未成熟な種子は「枝豆」と呼ばれ、
これはビールのおつまみとして、愛好されている。

大豆の原産地は、中国東北部からシベリアにかけての
一帯だといわれており、
日本にも自生しているツルマメが、その原種だとされる。
4000年ほど前には、
中国でこのツルマメの栽培が始まっており、
これが「大豆」として作物化していったと考えられている。
日本には、縄文時代に朝鮮半島を経由して
入ってきたと考えられており、
縄文時代に存在したと思われる出土例もある。
日本最古の歴史書『古事記』にも、
大豆に関する記述があり、
これによれば、スサノオに斬り殺された
オホゲツヒメ(大宣都比売)の尻から、
大豆が生じたことになっている。

では、古代の人々はどのように大豆を食べていたのか?
大豆を使った食品で、
もっとも古くから食べられていたとされるのが、
「納豆」である。
これは、日本が稲作を始めた弥生時代に、
自然発生したといわれる。
稲藁についている納豆菌が、
煮豆を納豆に変えたというのである。
この話が正しいとすると、納豆以前の大豆は、
煮豆にして食べられていたということだ。
当時、調味料として使われていたのは塩と酢。
煮豆にどちらが合うかといえば、塩だろう。
塩水で煮たのか、煮上がったものに
塩をかけたのかはわからないが、
どちらにしても、煮豆こそが日本で最初の豆料理だった。
ん、待てよ?
その調理法で良いのなら、枝豆も同じくらいから
食べられるんじゃないの?と思われる人もいるだろう。
ところが枝豆に関しては、食べられ始めたのは遅く、
奈良・平安時代あたりのことではないかといわれている。
これは恐らく、大豆に保存食としての性格があり、
しっかりと成熟させ、収穫していたためだと思われる。
長期の保存のきかない枝豆は、好まれなかったのだろう。

豆腐が作られ始めたのは、
奈良・平安時代のころだとされている。
しかし「豆腐」の回で指摘したように、
豆腐を作るのに必要な「にがり」が日本に来たのは、
江戸時代のことである。
もしこの話が正しかったのなら、奈良・平安時代に
豆腐を作れるはずがない。
ひょっとしたら「にがり」ではなく、
葛粉や片栗粉などで、豆腐を固めていた可能性もある。
もしそうだったとすれば、
この時代、すでに豆乳が作られていたということである。

味噌が作られ始めたのは奈良時代で、
このころの味噌は、醤油と入り交じったような、
「醤」「未醤」と呼ばれるものであった。
この「未醤(みしょう)」が、味噌へと変化していった。
鎌倉時代になると、この「未醤」から「醤油」を取り出し、
「たまり醤油」とした。
これが醤油の始まりである。

「安倍川餅」の回でも書いたが、
きな粉はすでに奈良時代には作られ、薬として使われていた。
きな粉は、炒った大豆を粉にしたものである。
少なくとも奈良時代には、大豆を炒っていたことがわかる。
これをそのまま食べていたのか、
それとも全てきな粉にしていたのかは、わからない。

大豆の利用法を見る限り、
仏教の伝来以降に、そのバリエーションが増えている。
これは中国に渡った僧侶たちが、
仏教と一緒に様々な利用法を持ち帰ったことにもよるが、
「肉食禁止令」という、中国にも存在しない、
日本独特の法律が施行されたためではないだろうか?
肉食を禁じられることによって、
当然、摂取タンパク質量は大きく減じることになる。
この減ったタンパク質を補ったのが、
大豆だったのではないだろうか。
また大豆には、日本人の食生活に不足しがちな脂肪が
結構含まれている。
獣肉から脂肪が摂取できなかった日本人にとって、
大豆に含まれている脂肪は、
やはり貴重な栄養源であったに違いない。

そういう風に見た場合、
大豆は、日本人の栄養の、かなりの部分を、
ガッチリと支え続けてきたことになる。

最近、うちの近くでは、
大豆に転作する水田が目立ってきた。
大豆は米よりも収穫時期が遅くなるため、
ちょうど今ごろが収穫時期である。
黄金色に染まる稲に比べると、
大豆は完全に枯れ果ててしまったような、
みすぼらしい姿になる。
一面茶色く、葉はほとんど落ちてしまって、
植物の残骸が倒れかかっているように見える。
まさに死屍累々といった情景だ。
だが面白いことに、そんな枯れ果てたサヤの中には、
黄金色の大豆が詰まっている。

大豆畑の側を自転車で走っていると、
刈り取った大豆の木を、ブルーシートの上で束ね、
棒でバシバシと叩いていた。
そうすることによって、サヤの中に入っている大豆が
ブルーシートの上に飛び出してくる。
なんとも牧歌的な風景だ。

少なくとも自分のまわりでは、
大豆栽培において、畑の耕起以外は、
手作業で行なわれ、機械化されていない。
恐らくは縄文時代の人々も、
同じように刈り取った大豆の木を棒で叩いて、
大豆を取り出していただろう。

そう考えると、人間は縄文時代から、
さほど進化していないのかもしれない。

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