雑学、雑感、切れ味鋭く、思いのままに。

Falx blog 2

ホビー 歴史 雑感、考察

紙芝居〜そのルーツを探る

更新日:

前回、今ではほとんど見なくなった「紙芝居」について書いた。

現在の様な「平絵」と呼ばれる「紙芝居」が生まれたのが昭和5年ごろ。
それ以前は、棒の先に紙で出来た人の絵などを貼付けたものを使い、
演者がこれを操作して見せる、一種の人形劇の様なものが
「紙芝居」と呼ばれていた。
これを「立絵」と呼ぶ。
どうも「紙芝居」という言葉が使われる様になったのは、
この「立絵」による人形劇からであったらしい。
今回はこの「立絵」、さらにこれに繋がるルーツと思わしきものを
辿りながら、「紙芝居」のルーツを探っていく。

まずは「平絵」と同じく、「紙芝居」と呼ばれていた
「立絵」から見ていこう。
この「立絵」が生み出されたのは明治20年代のこと。
東京で、落語家・三遊亭円朝の弟子であった「新さん」という人物が
うちわを人形にして見せた、人形芝居であった。
ただ、どうしても広さのある寄席では、前の方の人間にしか見えず、
観客の評判はサッパリであったという。
やむなく「新さん」は噺家をやめ、この棒付きの人形を作って売り、
これで生計を立てることになった。
明治時代末ごろに、丸山善太郎なる香具師がこの人形を買い取って、
これを使った人形劇を始めた。
この人形劇は子供を相手にしたもので、
畳2畳ほどの小さな小屋の中で行なわれ、これがウケた。
やがてこの人形芝居は小屋の中だけでなく、街頭でも行なわれる様になり、
さらに見物料を取る営業形態から、集まった子供に駄菓子を売る形態へと、
商売そのものの形態が変化していった。
この「立絵」による人形芝居(紙芝居)は大きな人気を呼び、
町中に「立絵」芝居が乱立し、やがてこれが教育に良くないという声を
受ける様になっていく。
そこで、「絵本の説明なら、教育的云々の指摘はあたらない」と、
「平絵」による「紙芝居」が生み出され、この旨を警察に届けて、
「平絵」の「紙芝居」が広まっていくことになった。
これが昭和5年のことである。
前回書いた様に、「立絵」では人形操作と喋りを
同時にこなさなければならず、結構、技術を必要としていたのだが、
「平絵」では、演者がほぼ喋りだけに集中できるため、
演者の負担も減ったことから、
「立絵」は一気に「平絵」に切り替わることになった。
(ただ、「平絵」に代わった「紙芝居」でも、後に「俗悪だ」という
 批判が寄せられることになるのだが……)

「紙芝居」という言葉が使われ始めたのは、この「立絵」が最初で、
「紙芝居」の歴史ということになるのなら、ここまででいいのだが、
ここからは「紙芝居」の元となったと考えられる、
いくつかのものを紹介していく。

まず最初に取り上げるのは「写し絵」である。
これは風呂(幻灯機)と種板(ガラス板で出来たフィルムに相当するもの)
を使って、映写幕に映像を合成し、動きを持つ像を作り出すものである。
凄まじく近代的に思えてしまうのだが、
実はこれは享和3年(1803年)に作り出されたものである。
つまり江戸時代の後期だ。
長崎の人から、オランダ人の幻灯機の話を聞いた人間が、
これを再現しようとして作り上げたという。
様々な工夫により、画面に映した像を動かし、物語を演じてみせた。
ただ、こちらはどうしてもある程度大掛かりな仕掛けが必要になる。
(その性質上、どうしても小屋を造り、暗い場所を作らねばならなかった)
そこから、これを大胆に簡略化し、
映像ではなく、紙に描いた絵を棒に貼付け、これを動かすことで、
物語を演じる「立絵」へと繋がったというのである。
技術的にはむしろ退化しているという所が面白い。
映画などのように、映写幕の前面から写すのではなく、
後ろ側から写して、前面で客がこれを見るというスタイルだったようだ。
この「写し絵」は、明治期前半ごろまで都市部を中心に
かなりのにぎわいを見せていたようである。
ただ、明治29年、日本に初めて「映画」が持ち込まれる。
以降は一気に「映画」の人気が高まり、それに押される様にして
「写し絵」はそのシェアを奪われていったようである。
やがて、関東大震災や第2次世界大戦によって、
「写し絵」の命ともいえる種板が失われた。
この点は「平絵」の「紙芝居」も同じ運命をたどったが、
「紙芝居」と違い、「写し絵」が戦後、復活してくることがなかった。
やはり紙に絵を描けばいいだけの「紙芝居」と違い、
ストーリーやギミックを考えながら製作しないといけない種板は、
作るのにずっと手間がかかったということだろう。
(もちろん、それ以外にも幻灯機や映写幕、暗闇を作る小屋など、
 種板以外にも、手間のかかる器材が多かったことも
 「写し絵」が復活しなかった大きな要因だろう)

「のぞきからくり」というのも「紙芝居」の源流といえる。
これは「のぞき眼鏡」ともいわれ、レンズをはめ込んだのぞき口が
いくつもついた箱の中で、絵物語が展開していくものだ。
客たちは、のぞき口から箱の中をのぞき、
演者の語りを聞くことになる。
場面、場面で絵が切り替わるので、かなり「紙芝居(平絵)」に近い。
ただこちらは、菓子を販売するのではなく、見物料をとる。
箱の中をのぞかせるのは、いわばタダ見をさせない工夫のようだ。
こちらは「写し絵」よりも100年以上前に作り出され、
記録にある限りでは、昭和55年まで公演が行われていたという。
つまり300年以上、命脈を保っていたわけだ。

この「のぞきからくり」よりもずっと歴史が古いのが、
「絵解き」である。
これは娯楽・芸能とは一線を画している。
この「絵解き」は、仏教に関わる絵図を説き語るものであり、
むしろ娯楽というよりは、お坊さんの説法に近い。
その起源は平安時代にまで遡り、
貴族たちを相手に、高僧が絵の説明を行なったのがその始まりである。
このころは、1枚の絵の中にかなりたくさんのものが描き込まれており、
それがちょっとしたストーリー仕立てになっている様なものも
あったようだ。
やがてはこの「絵解き」を専門とした絵解き法師なども現れ、
彼らは各地を回り「絵解き」をして回ったが、
このころになると芸能化・娯楽化の傾向が強くなり、
やがて衰退していくことになる。

さて、ここまで元祖「紙芝居」といえる「立絵」や、
それに類すると思われる、様々なものについて書いてきた。
どれも、時代の流れと共に衰退し、我々の周りから消えていったが、
近年では、これらを復活させて受け継いでいこう、
という流れもあるようだ。

これらの集大成といってもいい「紙芝居」は、
実は日本固有のものである。
人手も要らず、大掛かりな器材も要らず、教育にも、娯楽にも
用いることが出来る「紙芝居」は、かなり優れた表現技法である。
ほんの十数枚の紙さえあれば、どんな貧困地域、難民キャンプ、
電気すら通わぬ僻地でさえ、娯楽や教育を提供できる。
何より素晴らしい点は、文字を読めない相手であっても
「紙芝居」であれば、内容を理解してもらえるという所だ。
そういう意味では、本よりもずっと効率的で融通が効くといっていい。

日本では、ほとんど死文化と化しつつある「紙芝居」だが、
これはもっと、積極的に世界に広げていかなければならない
素晴らしい文化だ。

Related Articles:

にほんブログ村 その他生活ブログ 雑学・豆知識へ
にほんブログ村

スポンサーリンク
スポンサーリンク

-ホビー, 歴史, 雑感、考察

Copyright© Falx blog 2 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.