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世界三大大火〜ロンドン大火

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世界三大大火の最初、「ローマ大火」からおおよそ1600年。
ローマからはるか東の地・日本において
2つ目の「明暦の大火」が起こった。

「ローマ大火」では、その大火災の規模の大きさは伝わっていたものの、
何人の犠牲者が出たのか?ということについては、
詳しい話が出ていなかった。
もちろん、それだけの規模の大火災なのだから、
普通に考えれば、とんでもない数の犠牲者が出ているはずなのだが、
残念ながら、これについての詳しい情報は見つからなかった。

この「ローマ大火」よりも、ずっと近年に起こった「明暦の大火」では、
その犠牲者数は3万人とも、10万人ともいわれている。
部分部分で、1万人とか、2万3千人の死者が出たといわれているので、
実際の犠牲者数は、やはり10万人に近かったのかも知れないが、
それでもその数には、7万人ものひらきがある。
これは、この様な大規模火災においては、
正確な犠牲者数を算出するのが、いかに難しいかということを示している。
黒こげになっていたとしても、まだ人の形が残っているのならともかく、
骨もろくに残らない様な燃え方をしてしまえば、
もはや、犠牲者として数えられることもなくなってしまう。

この10万人が犠牲になったとされる「明暦の大火」のわずか9年後、
ほぼ地球の裏側といっていいイギリス・ロンドンにおいて、
世界三大大火の3つ目、「ロンドン大火」が起こった。

この「ロンドン大火」そのものについて書く前に、
当時のロンドンについて書いておこう。

「ロンドン大火」以前、この町はローマ時代に建設された市壁によって
囲まれており、その中に木造住宅がひしめきあっていた。
ここは現在のグレーターロンドン市の中心部から、
やや東よりに位置していて、現在は金融街となっており、
「シティ」と呼ばれている場所である。
もともとは、この地に侵入してきたローマ人達によって
造られた町だったのだが、後にローマ人たちはこの地を去り、
ヨーロッパからやって来た民族がここに定住した。
彼らによって、ここは商人たちが住む、商人たちの町として発展し、
町自体が強力な自治権を有していたため、
国王ですら、おいそれと手出しの出来ない町となっていた。
この点、戦国時代に強力な自治権を有していた
大阪の商人町・堺の姿を彷彿とさせる。
一説によると、当時の「シティ」の人口は46万人ともいわれており、
これはイングランドの人口の約1割にあたる。
当時の「シティ」の面積は、おおよそ2.5平方キロメートルで、
この中に46万人が住んでいたわけだから、
その過密ぶりには驚くしかない。
この過密な町の中で、石(レンガ)造りの家に住んでいるのは
ほんの一部の富裕層のみで、残り大半の一般庶民は、
ひしめき合うように建つ、木造住宅に住んでいた。
もちろん、過密に住宅が建て増しされているため、
通りなどは非常に狭くなっていた。
さらには、人口が飽和状態の上、現在の様なゴミ回収システムや
下水道が全く整備されていなかったため、
町自体の不潔化が進み、川などは悪臭漂うドブ川と化していた。
無論、こんな状況で人が健康に暮らせるわけがない。
この劣悪な衛生環境の中、疫病が頻発し、
この「ロンドン大火」に見舞われる前年、
「シティ」は史上最悪のペスト大流行に襲われていたのである。
つまり、このときのロンドン(シティ)市民たちは、
ペスト→大火災という、地獄のダブルパンチを食らったわけである。

1666年、9月1日。
火災の発生時刻は深夜2時となっているから、
正確には9月2日の未明である。
ロンドン・ブリッジのすぐ北に位置する下町、
プティング・レーンのパン屋から火が出た。
1階にあるかまどから火が出たため、火事に気付いたときには
既に階段で階下に下りることが出来なくなっていた。
仕方なく、店主らは(2階の)窓から通りへと飛び降りたのだが、
ただ1人、高所恐怖症だったという下女だけが飛び降りることが出来ず、
そのまま煙と炎に包まれて、焼死してしまった。
恐らくは彼女が、この「ロンドン大火」における最初の犠牲者だろう。

この火事発生の一報は、ただちにロンドン市長へと伝えられた。
しかし、もともとこの町では、火事が頻発していたため、
この一報を聞いた市長も、「またか……」とろくに取り合わず、
そのまま寝床に戻ってしまったという。
余りといえば余りな、市長の対応だが、
その間にも、火は東風に煽られ、町を飲み込み始めていた。

この年、イングランドは10ヶ月近い干ばつ続きで、
空気も町も、非常に乾燥し切っていた。
そんな所に強風が吹いていたわけだから、そこに火の手が上がったら
もう誰にも止めようがない。
炎はたちまち周りに燃え広がり、
テムズ川沿いに並ぶ倉庫街へ飛び火する。
ここには、火薬にタール、石油に石炭と、
大量の可燃物が貯蔵されていたため、
ここで火の勢いは決定的に強くなった。
当時の資料によれば、一晩で300軒もの家が焼け、
それでも火は収まらず、燃え広がり続けていた。
国王は、ただちにロンドン市長の元へ使いをやり、
まだ燃えていない町を破壊して、延焼を防ぐように指示した。
しかし、ロンドン市長は後に責任を問われることを恐れ、
どうしても町の破壊に踏み切れなかった。
結果的に、この市長の逡巡が被害を決定的に大きなものにした。

後に市長に変わって、国王自らが指揮をとり、
延焼を防ぐために町を破壊して、消火活動に当たった。
国王自ら水桶をもって消火にあたったというから、
状況は相当に切迫していたのかも知れない。
3日目の夜になって、ようやく風が弱まり始め、
4日目には、町を破壊して造った防火帯が功を奏し、
ようやくこの大火災は終焉へと向かう。
それでも、この火災が完全に鎮火したのは9月6日のことであった。

この大火によって失われたのは、ロンドン市内の家屋の85%、
およそ1万3200戸である。
はっきりいって、町の全てが燃え尽きたといっても過言ではない。
ただ、面白いと言っては何だが、これだけの大火で
犠牲になった人の数は、記録されている分だけでは5人である。
パン屋の下女が最初に焼死していることを考えると、
それ以降、焼死した人は片手で数えるだけしかいないわけだ。
昼間に起こった火事ならばいざ知らず、
深夜に突如発生した大火で、そんなに犠牲者の数が少ないなんてことが
あるだろうか?
断定してしまうのはアレだが、恐らくは記録にあぶれた犠牲者が
多数いたのではないだろうか。
あるいは、ロンドン市側が、市民として認識(登録)している人の中で
亡くなったのが5名だけだった、ということも考えられる。
少なくとも、大火が発生した際の、
市側の無能ぶりを見る限りでは、
まともに犠牲者の数を計測できたとも思えず、
かなりいい加減な数字が算出されていたのではないだろうか?

もう1つ、面白い話がある。
この「ロンドン大火」の後、シティに蔓延していたペストは
収束に向かっていく。
これについて、「ロンドン大火」によって、
市内に蔓延していた多くの菌が死滅することになり、
それによって、ペスト感染者が減っていったというのである。
そういうこともあるのかな?と、首をひねりたくなる話だが、
ペストの収束の代償が、町1つの全焼であるというのなら、
はたしてこれは割にあっていたのか、いなかったのか。

この後、ロンドンの町は再建されることになるのだが、
その際には、ローマ、江戸と同様に、充分な火災対策が施された
都市として、再建されるのである。

さて、3回にわたって、世界三大大火である「ローマ大火」、
「明暦の大火」、「ロンドン大火」を見てきた。
これらを見比べてみると、面白いことにすべての大火で
共通している要素が多いことに気がつく。

・急速に発展した都市で、キチンとした都市計画によっておらず、
 ドンドンと継ぎ足すように住居が建て増しされていた
・非常に密集した木造住宅の集まりであった
・大火発生時、空気は非常に乾燥しており、
 さらに強い風が吹いていた

ついでにいえば、第1回の最初に取り上げた「糸魚川大火」にしても
これらの条件に当て嵌まっている所がある。

いずれにしてもこの季節、空気は乾燥し、風も強いことが多い。
昔のように木造住宅が密集していることは少なくなったが、
それでも、この時期、下手に火を出せば、
思わぬ大火になりかねないことは、
昨年の「糸魚川大火」で目にした通りである。
年末のこの時期、火を扱うことも多くなるかも知れないが、
くれぐれも火の用心を心がけたい。

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