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歴史

前世紀〜その4

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1962年、「核」戦争勃発の瀬戸際まで迫った「キューバ危機」。

ソビエトによるキューバのミサイル基地建設によって
アメリカは「核」攻撃の危機にさらされることになった。
アメリカ国内ではソビエトに対し、「核」ミサイルによる先制攻撃を、
という声も上がっていたが、大統領であったケネディはそれを却下。
やがてソビエトが譲歩し、ミサイル基地の撤去を発表した。

今回は、このキューバの時計の針を少し巻き戻して話を始める。

アメリカの南海上に存在しているキューバという島国は、
1959年まで、どちらかといえばアメリカに近い国であった。
というのも、当時政権を握っていたバティスタ大統領は
アメリカからの支援を受けている軍事独裁政権だったからだ。
だが、アメリカ企業による搾取が常態化していたため、
市民の間では、反アメリカの気運が高まっていた。
そのため、キューバ国内では複数の反政府勢力が
反乱を起こし始めていた。

その反乱軍の1つに、2人の若者がいた。
フィデル・カストロとチェ・ゲバラ。
彼らはわずか十数人の仲間と共に山中を移動しながら、
政府軍にゲリラ戦を仕掛けていった。
彼らのゲリラ軍には、農民たちが次々と加わり、
その数は400人前後にまで膨れ上がった。
彼らはそのまま山中から出て、
中部の都市・サンタクララへと攻め込んだ。
これを迎え撃つ政府軍の数、3000人。
しかしゲリラ戦に長けた彼らは、
自軍の何倍もの兵力を持つ政府軍を撃破し、
1959年、ついにバハナにおいて革命政権を樹立したのであった。
首相に就任したカストロは、隣国であるアメリカとの関係を重視し、
友好的に自らの革命政権を承認させようとしたが、
バティスタ政権時に様々な利権を持っていたアメリカは、
これを冷遇し、結果、キューバの新政権と
ソビエトを接近させることとなった。
これが後に、「キューバ危機」へと繋がっていくのである。

一方の革命の英雄であるゲバラは、革命後、キューバを離れ、
ボリビアを拠点にラテンアメリカの解放を目指し、
革命活動を続けていたが、1967年、
ボリビア政府とCIAによって捕らえられ、銃殺された。
享年39。

この頃、太平洋を隔てた東南アジア・ベトナムでは、
いよいよベトナム戦争が泥沼の様相を呈していた。
南北に分かれたベトナムの、北側にはソビエトがつき、
南側にはアメリカがついていたが、
南ベトナムにおいて、北に通じる共産主義者を一掃するための
「フェニックス作戦」がCIAの主導によって実行に移されると、
2万人もの一般人が捕らえられ、拷問・虐殺されることとなった。
彼らは共産主義者の恐怖を煽るため、
殺害した人間の口に、トランプのスペードのエースを加えさせた。
共産主義者に関わったと見られた村は焼き払われ、
無抵抗の村民でさえ、無差別に虐殺される有様だった。
こんな非道なマネをして、ベトナム国民の恨みを買わないわけがない。
それどころか、その様子がマスコミによって
アメリカ本国へ伝えられると、アメリカ国民の間にも
ベトナム戦争反対の声が大きくなり、そのころ巻き起こっていた
人種差別撤廃を求める公民権運動とも相まって、
若者を中心とした「ラブ&ピース」を主張する大きなブームが起きる。
この運動は世界中へと拡散して行き、我が日本においては、
1960年代から70年代にかけて盛り上がった
「学生運動」という形で広がりを見せた。

同じころ、国内に狂気の革命が巻き起こっていた国がある。
中国だ。
1966年、天安門広場に集まった100万人の群衆は、
「プロレタリア文化大革命」を謳い、富裕な商店や教師、
官僚や共産党幹部を「反革命分子」として、襲撃した。
もともとこれは、権力の中枢を追われた毛沢東が
政敵を倒すために学生運動を煽ったものだったのだが、
「造反有理(反乱にこそ道理がある)」
「革命無罪(革命に罪はない)」を謳った文化大革命は暴走し、
教師や職場のリーダー、果ては自分たちの親たちに至るまで
攻撃の対象となった。
また、彼らは旧文化・旧思想の破棄をスローガンとしていたため、
数々の寺院や遺跡、陶磁器や金魚、月餅などの古い歴史を持つ
商品やその製造者まで、攻撃されることになり、
文化大革命の吹き荒れた10年間で、重要な多くの文化財が失われた。
この文化大革命のために命を落とした人間は、
数百万人とも数千万人とも言われているが、
その実態のほどはハッキリしない。
それほどに国内は騒乱し、狂気が吹き荒れていたということだろう。

この「文化大革命」から約20年後、
同じ天安門広場に10万人を超える若者たちが集まった。
世代的に言えば、「文化大革命」で苦しめられた若者たちの
子供の世代である。
彼らは、中国の民主化を求め、大規模なデモを起こしたのである。
やがてこの動きは大きなムーブメントとなって、
中国全土の都市に広まっていく。
そして1989年6月4日。
中国人民解放軍は、軍隊と戦車を用いて
デモに参加していた若者たちに無差別攻撃を仕掛けた。
容赦なく銃弾が発射され、装甲車は集まった若者を轢き殺した。
民主化を求める若者たちに対し、武力弾圧を行ない、
一般市民を大量虐殺したのである。
世に言う「天安門事件」だ。
この事件における犠牲者の数はハッキリとしていないが、
その数は1000人以上とも3000人以上ともいわれている。
一説によると、デモ隊が放逐された後、
人民解放軍によって死体が集められ、その場で焼却処分されたという。
さらに中国共産党によって、
多くの死体が隠匿されたという報道もされており、
中国政府がこの事件を、ひた隠しに隠蔽していることが分かる。
中国では現在でも、「天安門事件」に関するワードを
インターネット検索しようすると接続が不可能になるというから、
中国政府にとってこの事件は、隠しておきたい汚点ということだろうか。
ちなみに事件の映像は、海外のマスコミによって
世界中に報道されており、この事件後、中国は世界中から
厳しい非難を受けた。

この年、中国・天安門事件の裏で、
世界ではいくつかの歴史的な変革が起こっていた。

そのひとつがベルリンにおける、「ベルリンの壁」の崩壊である。
第2次世界大戦後、東西に分割されていたドイツの象徴とも言える
「ベルリンの壁」が崩壊したことにより、
ドイツは翌年、東西ドイツの再統一へと向かっていくことになる。

もう1つは、この年、開催された「マルタ会談」において、
第2次世界大戦以降続いていた「冷戦」の終結を宣言したことである。
だが、米ソの対立を軸とした東西陣営の「冷戦」は終結したものの、
この「冷戦」によって生じた紛争・戦争は、これ以後も残り、
21世紀となった現在でも、深刻な問題を残している。
特に中東における紛争はやがてテロリズムへと変化して行き、
21世紀初頭の、米国同時多発テロへと繋がっていくのである。

よく20世紀は「激動の世紀」だ、という風に言われることがある。
まさにその通り、科学・文化・人のすべてが、
この100年間において、大きく様変わりした。
その裏では、人類史上、類を見ないほどの戦争が起き、
「冷戦」と呼ばれる40年ほどの間には、
やはりそれまでにないほど多くの人間が、命を奪われて来た。
それらの多くの犠牲者たちは、人類の変化・進化の過程で
避けられないものだったのか、あるいは避け得たものだったのかは
結論の出せないことだろう。
我々の生きる21世紀は、20世紀ほど大きく動く時代ではない。
とはいえ、いつ、そのような変革が起こるかは誰にも分からない。

「歴史は繰り返す」とは、
古代ローマの歴史家クルティウス・ルフスの言葉だが、
20世紀の過ちを繰り返すことは、避けなければならない。

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