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歴史

前世紀〜その3

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「冷戦」という言葉を、いつごろ、誰が使い始めたか?
ということに関しては、はっきりとしたことは明らかではない。

ただ「冷戦」については、
1945年の第2次世界大戦終了時から始まり、
1989年の「マルタ会談」に終結した、
ということになっているので、少なくとも1945年以降の
どこかであることは疑い様がない。
初めて「冷戦」という言葉を使ったとされる人物にしても、
作家のジョージ・オーウェルとも、
ジャーナリストのウォルター・リップマンとも言われていて
はっきりしない。
ただ、44年間という長きに渡って「冷戦」状態だったわけだから、
4〜6年程度で終わっていた第1次・第2次の世界大戦と違い、
これは随分と長く続いたことになる。

第2次世界大戦後、世界には2つの強大な国家が存在していた。
資本主義国家の大国・アメリカ合衆国と
共産主義国家の大国・ソビエト連邦。
彼らは直接戦火を交えることはなかったが、激しく対立していた。
軍事力、科学力、宇宙開発、スポーツと、
誰の目にも見える分野での対立はもとより、
スパイ戦、謀略、暗殺など、水面下でも激しく対立した。
彼らは、自らの勢力を拡大するため、
各国を自らの陣営に引き入れ、
ついには世界を2分するほどの勢力となった。
この両陣営については、ソビエト連邦を中心とした共産主義国家が
東欧に集まっていたことから「東側」、
アメリカ合衆国を中心とした資本主義国家は
西欧に集まっていたことから「西側」と称された。
彼らはお互いにスパイを送り込んで、敵側陣営の情報を得ようとし、
自国に入り込んだスパイを捜し出し、これを処分しようとする。

「東側」の多くの国では秘密警察が組織され、
彼らは国民をお互いに監視させ、「密告」させるシステムを作り上げた。
「密告」があれば、ただちに収容所へと収監され、
厳しい取り調べや、拷問が行なわれた。
ソビエトを支配していたスターリンは、猜疑心が強く、
周りにいる人間を、誰も信じることが出来なかった。
至る所に裏切り者が潜んでいると思い込み、
狂気のような「大粛清」を行なう。
この「大粛清」によって、130万人以上の人間が有罪となり、
そのうちの約半数が死刑判決を受けた。
そこに暮らしている人間たちにとってそれは、
恐怖以外の何物でもなかっただろう。

一方の「西側」、アメリカではCIAやFBIによって、
共産主義者の徹底的なあぶり出しが行なわれた。
「東側」のような、相互監視の「密告」こそなかったが、
盗聴や家宅侵入、郵便物のチェックや脅迫など、
様々な違法捜査が秘密裏に行なわれ、
共産主義者を見つけ出そうとした。
俗にいう「赤狩り」である。
アメリカ議会は、共産主義者の疑いのある人物を
公聴会において尋問し、その姿をTV中継して全国に流した。
「東側」に比べると、随分と暢気なようにも思えるが、
共産主義者(容疑者)が厳しく尋問される姿を広く公開することで、
潜んでいる共産主義者にプレッシャーを与える意味も
あったのかも知れない。
この公聴会に頻繁に呼び出されたのが、
ハリウッドのスターたちである。
なぜ、彼らが公聴会に頻繁に呼び出されたのかは分からないが、
ひょっとすると、公聴会中継の視聴率を
少しでも上げようという意図があったのかも知れない。

こうして世界を東西2陣営に分割してしまった「冷戦」だが、
文字通り、国そのものが、2つに分けられてしまった国がある。
敗戦国となったドイツである。
ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソビエトの4カ国に
分割占領されることになり、そのまま4つに分割された。
東西の対立が激化した結果、1949年には
東ドイツと西ドイツが誕生することになった。
ベルリンは東ドイツの中にあったが、ここも両陣営によって分割され、
東ベルリンと西ベルリンに分たれてしまった。
西ベルリンは東ドイツの中の「飛び地」として、
存在することになったのだ。
西ベルリンは東ベルリンに比べ物資が豊かで、
労働賃金も高かったため、多くの人が西ベルリンへと流れた。
これが面白くない東ドイツは、突如として西ベルリンを鉄条網で封鎖し、
壁を作り始めた。
そう、東ベルリンと西ベルリンの間にそびえるこの壁こそ、
あの「ベルリンの壁」である。
この西ベルリンの封鎖は、何の前触れもなく突然行なわれたため、
多くの家族が不意に引き裂かれてしまうことになった。
また、この壁を越えようとしたものは次々に射殺され、
多くの人間が命を落とした。

1945年に「冷戦」状態に突入して以降、
東西陣営の首領格であるアメリカとソビエトは、
直接戦うことがなかった。
だから世界は平和であったか?と言われれば、決してそうではない。
朝鮮半島、ベトナム、アフガニスタンなど、
争いの起こった所に両国は介入し支援を行なった。
両国の支援によって戦いは激化し、それぞれの戦場は
その悲惨さを極めることになった。
さらにこの両国は、政情不安定な国の内戦にも干渉し、
体制側、反体制側へと、それぞれ武器などを提供、
アンゴラ、ソマリア、カンボジア、キプロス、中東など、
東西の代理戦争のようにさえなり、
死者・難民が遥かに増えることになった。
米国の秘密工作や、ソビエトの軍事力によって踏みにじられた国も
ニカラグア、チリ、コンゴ、イラン、キューバ、ポーランド、
ハンガリー、チェコスロバキア、ウクライナなど枚挙に暇がない。
これら「冷戦」によって命を奪われた犠牲者の数は、
第2次世界大戦のそれを、遥かに超えるものである。
発展途上国での紛争など、本来ならそう激しくなるはずがない。
武器も物資も乏しい中では、そんなに激しく戦えるはずもないからだ。
そこにわざわざ武器や物資を送り込むなど、
小さな火に、ガソリンを注ぐような行為である。
これによって、より多くの死者・難民が出ることになったわけであるから、
東西両陣営の犯した罪は、決して軽いものではない。

ベルリンの壁が築かれた翌年の1962年。
第2次世界大戦以降、初めて米ソ直接対決の危機が訪れる。
それも普通の戦争ではなく、核戦争の危機である。
詳細はこうだ。
アメリカ・フロリダ半島の南海上にある島国・キューバ。
ここにソビエトの輸送船が盛んに出入りしていることが明らかになった。
ひょっとして、キューバに「核」が持ち込まれているのではないか?
そう考えた大統領・ケネディは、この状況をTVで公開した。
これにはソビエトを牽制する狙いがあったものと考えられる。
アメリカに隣接しているといっていいキューバに「核」を配備されれば、
アメリカ合衆国全土が「核」の危機にさらされることになる。
ケネディはミサイル基地の撤去を要請し、キューバを海上封鎖した。
このとき、アメリカ国内ではソビエトに対し、
「核」をもって先制攻撃をかけるべきだという意見も出た。
しかしケネディはこの案を却下し、さらに様子を見る。
結局、ギリギリの所でソビエトが譲歩し、ミサイル基地の撤去を発表。
「核」戦争の危機は回避されたのである。
そう、これが「キューバ危機」と呼ばれる事件である。

無事、「核」戦争の危機を回避したケネディであったが、
その翌年の11月22日、ダラス市内において狙撃される。
3発放たれた銃弾のうち、2発が命中。
このうちの1発が彼の頭部に命中し、彼は命を落とした。
享年46。
若き大統領の、早すぎる死であった。

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