雑学、雑感、切れ味鋭く、思いのままに。

Falx blog 2

歴史 雑感、考察 食べ物

ホルモン焼うどんを考察する。

更新日:

前回、「ホルモン」について書いた。

鳥獣肉の内臓「ホルモン」は、戦中・戦後の物資不足の際、
一般層へと浸透していった。
したがって、現在残っている「ホルモン」を使った料理のほとんどが、
この第2次世界大戦前後に考えだされたものである。

今回、取り上げる「ホルモン焼うどん」が、佐用町に誕生したのも、
戦後だったといわれている。

佐用町内には、牛せり市場と食肉解体場があったのだが、
戦後、食料不足の際に、それまでほとんど食べられていなかった
内臓を焼いて食べ始めた。
この焼いた「ホルモン」に、さらにボリューム感を出すために、
うどんが加えられるようになったのが、
「ホルモン焼うどん」の始まりである。
つまり、「焼うどん」にホルモンが加わったわけではなく、
「ホルモン焼き」にうどんが加わったのだ。

では、どうして加えられたのが「うどん」だったのか?
ご飯を加えて、「ホルモン焼き飯」となる道もあったのではないか?
ここには、戦後の食料事情が関係してくる。

戦後、日本を支配していた戦勝国アメリカにとって、
敗戦国日本の国民の腹を満たすことは、最優先事項であった。
もし、国民が過度に餓え、
アメリカの支配に不満を持つようなことがあれば、
日本国内での「反乱」を誘発しかねない。
そうならないためにも、早急に日本国民の腹を満たす必要があった。
当時の日本人が主食としていたのは、
もちろん「米」だったが、
日本国民に行き渡るほど、米の生産力が回復するには時間がかかる。
そこまでを埋める、代替の食料が必要であった。
アメリカが目を付けたのは、自国の小麦であった。
当時、アメリカ国内では小麦がだぶつき、余っている状況であった。
これを日本に持ち込み、とりあえずの食料とする。
そうしているうちに、やがて日本国内の米の生産量も回復するだろう。
それまでの、つなぎとしての小麦の輸入であった。

戦後すぐに、アメリカよりもたらされた大量の小麦によって、
日本では独特の食文化がさかんになった。
いわゆる、「こなもん」である。
安価な小麦粉を、日本人は西洋人のようにパンに加工して食べず、
独自の加工を始めたのである。
「お好み焼き」、「たこ焼き」、「焼きそば」など、
小麦粉を使った日本独特の料理が、さかんに食べられるようになった。
ここで注目すべきは「焼きそば」である。

もともと日本には、小麦粉を麺に加工する食文化があった。
「素麺」、「ひやむぎ」、「うどん」などである。
このうち、「素麺」と「ひやむぎ」は加工に時間がかかる。
せっかく輸入した小麦を、そんなものに加工していては、
飢えている腹を満たすことが出来ない。
小麦粉をすぐに加工して食べられる麺類は、
日本古来の麺の中では「うどん」だけだ。
従って戦後、日本に輸入された小麦のうち、
かなりの量が「うどん」として加工されていたと思われる。
加工するのに鹹水が必要な「焼きそば」「中華麺」と違い、
「うどん」は、水と塩さえあれば誰でも作ることが出来る。

戦後、物資の無い時代である。
「うどん」は作れても、ダシをとる鰹節や昆布などは、
手に入らなかったのではないかと思われる。
当時の播磨地方では、ダシのほとんどを「いりこ」でとっていた。
「いりこ」のよい所は、安価な所と、
生産するのに時間がかからないことである。
目の前に播磨灘を抱える播磨地方では、
戦後、すぐに「いりこ」の生産が再開され、その需要は高かったはずだ。
当然、他の地方にも販売され、
播磨地方の「いりこ」も不足気味だったのではないか?
そういう事情から、ダシ以外での、
「うどん」の食べ方が求められていたのだろう。

この要望に応えたのが、「焼うどん」であった。
日本各地に「焼うどん」発祥の地はあるが、
そのどれもが、戦中・戦後に作り出されている。
ダシの無い「うどん」を食べる方法として、
「焼きそば」にヒントを得た「焼うどん」が作られたのは、
必然的なことであった。

戦時中、直接の攻撃を受けなかった佐用町では、
深刻な食料不足に陥ることは無かったと思われる。
しかし、働き手の不足等により、米などの農産物の生産量は、
間違いなく落ちていただろう。
そうなると、佐用町でもアメリカから持ち込まれた小麦を、
食料として食べる機会があったに違いない。
その方法こそが、「ホルモン焼き」に、
ダシを失ってしまった「うどん」を加えて焼く、
「ホルモン焼うどん」だったのだろう。

佐用町と同じように、「ホルモン焼うどん」をウリにしている町が、
もうひとつある。
岡山県の津山市だ。
「津山ホルモン焼うどん」として、B1グランプリにも参加している。
兵庫県佐用町と岡山県津山市は、出雲街道に沿った町であり、
直線距離にすると、30kmほど離れているだけである。
文化圏としては、近いといっていい。
公称している歴史では、佐用町の「ホルモン焼うどん」の方が
古いということになっているが、
どちらも厳密な誕生時期の資料があるわけでもなく、
どちらかで誕生した「ホルモン焼うどん」が、
街道を伝わって伝播した可能性もある。

実際に、佐用町の「ホルモン焼うどん」が注目され始めたのは、
それほど古いことではない。
「ホルモン焼うどん」で町おこしをする団体、
「佐用ホルモンうどんくわせ隊」が発足したのが、
2002年のことだから、大体10年そこそこといった所だ。
佐用町の「ホルモン焼うどん」が注目され始めたころ、
友人たちに誘われて、これを食べにいったことがある。
友人たちは、ホルモンの入った焼うどんを珍しそうに食べていたが、
実は自分には珍しくも何ともなかった。
なぜなら、うちの実家では昔から、
焼うどんにホルモンを入れることがあったからだ。

これは、うちのルーツに関わってくる。
自分の両親はたつの市の隣、相生市の出身だったのだが、
父親の両親が(自分にとっては祖父母になる)、佐用町の出身だったのだ。
現在でも、遠い親戚が佐用町に住んでいる。
その関係上、相生の祖父母宅と佐用町の親戚とは、密な関係にあった。
そのため、父親も子供のころからホルモンや、
ホルモンを入れた焼うどんを口にしていたのだろう。
それがそのまま、自分の家庭へと持ち込まれた。
すなわち、自分にとっては「ホルモン」も「ホルモン焼うどん」も、
全く珍しいものではなく、ごく普通の食べ物だったのだ。

したがって、佐用町で「ホルモン焼うどん」を食べても、
珍しさなど欠片も感じず、
「これ、わざわざここまで食べにくるようなものか?」
と思うのみであった。
この感覚は、ご当地B級グルメを持っている地元の人間が、
一様に感じるものだろう。
それを感じたということは、たつの市民として生まれた自分にも、
佐用町民と同じ感覚がある、ということになる。

祖父母が佐用町から出てきたという、自分のルーツ。
それは全く家庭的な食文化という形をとって、
佐用町と全く関係ない自分の中に、残っていたのである。

たかだかホルモンの入った焼うどんに過ぎない「それ」が、
何よりも色濃く、自分のルーツを物語っていることは、
面白く、不思議な話である。

Related Articles:

にほんブログ村 その他生活ブログ 雑学・豆知識へ
にほんブログ村

スポンサーリンク
スポンサーリンク

-歴史, 雑感、考察, 食べ物

Copyright© Falx blog 2 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.