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百人一首

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最近、地味に百人一首の人気が上がってきている。

百人一首そのものというより、競技カルタとして人気がある。

毎年1月には近江神宮で名人戦、クイーン戦が開催される。

ニュースにもなるので、知っている人も多いだろう。

最近は漫画の題材にもなり、人気を取っている。

現代人の多くは、百人一首を古文の授業か歴史の授業で習う。

だが、実際にやったことのある人となると、ぐっと数が減る。

一定以上の年代ならば、やったことのある人も多いだろうが

恐らく40代以下になると、知識としては知っていても

やった経験があるという人は、かなり減ってしまうだろう。

自分はその少ない40代以下の経験者だ。

別段、好きでやったわけではない。

自分が小学校の頃、小学校主催の百人一首大会があり、

それに強制参加させられていたというだけのことだ。

地区対抗ということもあり、年末年始の冬休みに地区の公民館で

百人一首をやらされた。

やらされた、という所がポイントで、カルタに対するやる気はあまりなかった。

さぼらずに行っていたのは、カルタ遊びと割り切っていたからだ。

だからプレイ態度も不真面目だった。

自分の座っている座布団の下に、こっそり何枚かの取り札を隠すという、

小学生男子ならではのセコい技を使っていた。

自分の名誉のために言わせてもらうと、周りもみんな同じレベルで

似たようなセコ技で、熱い、そして低レベルな試合をしていた。

だが、全員がセコ技で戦っていたわけではない。

中にはカルタの面白さにのめり込む、ガチ勢がいた。

本来百人一首は、上の句と下の句を百首すべて丸暗記し、

さらには取り札の位置も把握して、上の句をひとことふたこと読んだ所で

取り札をはじき飛ばすようにとる。

そういうものだ。

そこにカルタ遊びという、牧歌的雰囲気は存在しない。

そんなガチ勢と戦って勝てるわけがない。

もう全く何もできないうちに、あれよあれよという間に

ほとんどの取り札をとられてしまう。

もちろん、普段セコ技を使っているとはいえ、数をこなせばいくつかは

上の句と下の句をまとめて覚える。

その数少ない、暗記している札をこっそりと自分の手前に並べ、

ガチ勢になんとか抗おうとするのだが、結局はぼろ負けする。

それが毎回のことだった。

小学校を卒業して、ああ、もう一生百人一首に関わることはないなと

思っていたのだが、高校の時に1回、百人一首の大会が開かれた。

多分、実験的な大会だったのだろう。

もちろん学校主催の行事なので、不参加というわけにはいかない。

クラス全員参加の予選があり、気がつけばクラス代表のチームの中に

組み込まれていた。

そのとき初めて、世の中の人は百人一首をしていないのだなと思い知った。

子供の頃、セコ技で戦っていた自分が、全くのヒラでプレイして、

周りを圧倒することができたからだ。

この時の大会では、何の問題もなく決勝まで進み、決勝で負けた。

どうも相手がガチな相手だったらしく、こてんぱんに負けた。

ひとつの高校の生徒の中で、百人一首をしたことあるのが、

自分を含めて5人もいなかったのである。

この時はいかに百人一首が浸透していないかを知り、驚いたものだ。

百人一首。

世間一般で言う所の百人一首は、藤原定家が選んだ小倉百人一首のことだ。

こういうと不思議な感じだが、実は百人一首というのは他にもある。

要は百の和歌を選んでひとまとめにした、というくくりなので、

百人一首は他に10種類以上存在する。

自分が言う百人一首は、もちろん小倉百人一首のことだ。

100人中、女性歌人が21人。

ほぼ5分の1だ。

かなり有名な女性が多く、和泉式部、紫式部、清少納言、小野小町などは

その名前を知っている人も多いだろう。

また和泉式部の娘小式部内侍や、紫式部の娘大弐三位のように、母娘で

選ばれている女性もいる。

やはり女性の歌には恋を扱ったものが多い。

僧侶が12人いる。

それはいいのだが、恋の歌を歌っている僧侶が何人もいる。

おい、生臭坊主と突っ込みたい所だが、これはガマンしよう。

さらにその中に何人か、女性になりきって恋の歌を歌っているものがいる。

具体的に言えば、通ってくる男を待ちこがれる歌だ。

……。

いや、僧侶には特にそういう「趣味」の者もいたというが、まさか……。

とりあえずこの話題は、これ以上触れることを止めておく。

唐突に話題を変える。

百ある和歌の中で、昔から気になっている歌がある。

「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき」

猿丸大夫の歌だ。

猿丸大夫はその実在さえ疑われている、怪しい歌人だ。

が、その歌は非常にすばらしい。

もちろん秋の情景を的確に写し取った歌自体もすばらしいが、

それ以上にすばらしいのは、小学生だった自分にもその意味が伝わったことだ。

他の歌は、おおよそ何らかの技巧が施されていて、訳文を読まないと

その正確な意味はわからない。

が、この歌だけは小学生が聞いても、その意味を正確に理解できる。

というか、現代語訳に直す必要がない。

考えてみれば、これはすごいことだ。

1000年以上の時間の隔たりがあるというのに、

ストレートに意味が通じるのだ。

言葉の役割が、意思の伝達であることを考えれば、

この歌は1000年という時間を越えても、その役割を完璧に果たしている。

つまりこの歌は、もっとも根源的な

言葉と言うレベルで優れているということだ。

恐るべし、猿丸大夫。

自分も、1000年後の人間に何の苦もなく理解してもらえるような、

そういう文章を書きたいものだ。

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