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「松の廊下」の事件簿〜その2

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かつて江戸城内にあった、もっとも有名な廊下、「松の廊下」。

「忠臣蔵」でお馴染みの赤穂事件の舞台となったことで、
非常に有名になってしまった「松の廊下」だが、
現在の江戸城(皇居)には、「松の廊下」は残っていない。
(現在、皇居東御苑内の「松の廊下」があった場所には、
 その所在を示す碑が残されている)

元禄14年、この「松の廊下」において、
赤穂藩主・浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に斬りかかったことで、
赤穂事件は幕を上げる。
この赤穂事件に関しては、非常によく知られている話なので、
今回はこれについての記述を省くが、
当時の江戸では、赤穂浪士たちの引き起こした討ち入り事件に、
賛否両論が巻き起こった。
結局、47人の赤穂浪士たちは、それぞれ預けられた屋敷において
切腹することになり、これで赤穂事件は終わりを迎えるのだが、
前回書いた通り、この赤穂事件から8年の後、
この「松の廊下」において、第2の刃傷事件が発生するのである。

大聖寺新田藩藩主・前田利昌によって、
大和柳本藩藩主・織田秀親が刺殺された事件は、
勅使饗応役を務めていた利昌と秀親の不和から発生しており、
その事件の構造は、赤穂事件と非常に似通っている。
この「松の廊下」第2の事件が赤穂事件と違うのは、
利昌が無事(?)、秀親を刺殺して、
その本懐を遂げている所である。
そのため、この事件では家臣団による仇討ちなどは起こっていない。
ただ、その後のことに関しては、
加害者となった前田利昌は切腹、
大聖寺新田藩は取り潰されていて、赤穂事件を彷彿とさせる。

さらに赤穂事件から24年後、この「松の廊下」において、
第3の刃傷事件が発生した。
今回は、この「松の廊下」第3の事件について書いていく。

この「松の廊下」第3の事件を起こしたのが、
信濃松本藩藩主・水野家6代目の当主となる、水野忠恒である。
この水野家というのは、徳川家康の母・於大の方の血筋であり、
徳川家にとって欠かすことの出来ない親戚であり、
徳川家内においても名門の一族である。
まず、事件について書いていく前に、
この水野忠恒という人物が、
どのような人物であったのかを書いてみよう。

忠恒は、先代藩主であった兄・忠幹が早世したために
藩主の座に就くことになった。
温厚な性格であり、学問に対しても熱心だったのだが、
やがて彼は酒に溺れるようになっていく。
もっとも、酒に溺れるといっても、
遊郭などで豪遊するといった性格のものではなく、
あくまでも城内や藩邸において酒宴を催す程度のものだったので、
家臣たちも多少のことは……と、大目に見ていたようである。
だが、それが良くなかったのかも知れない。
忠恒の酒量はどんどんと増えていき、
毎夜毎夜、ほとんど徹夜で飲み続けるようになってしまった。
こうなっては、もう、酒乱かアル中である。
政務を見ることもなくなり、一切は家臣たちに任せきりになった。

享保10年(1725年)、忠恒は妻を迎える。
相手は大垣藩主・戸田家の養女で、連日、婚儀の祝宴が催された。
もちろん、主役である忠恒もたらふく酒を飲み、
藩邸に戻った後も、新妻を放ったらかして酒を飲む始末だった。
だが、その翌日には大切な用事が待っていた。
江戸城に登城し、将軍・吉宗に拝謁して、
成婚の御礼を述べなければならなかった。
翌日、ベロンベロンに酔っぱらった忠恒の姿に
登城を延期した方が良い、という重臣もいたのだが、
なんせ結婚したばかりのことで、後にもスケジュールが詰まっている。
結局、酔っぱらった状態のまま、将軍に拝謁することになったのだが、
存外、心配したほどのことはなく、無事に拝謁を終えることが出来た。
拝謁が終わり、退出して「松の廊下」に差し掛かったときに
事件が起きた。
突然、忠恒は刀を抜き、長門長府藩藩主の世子である
毛利師就に斬りかかったのである。
だが、師就は胆が座っていた。
とっさに鞘ごと刀を引き抜き、これで応戦したのである。
忠恒は、廊下番をしていた幕臣・戸田右近将監に
取り押さえられてしまった。
師就も、別の廊下番によって取り押さえられたが、
こちらはもちろん、何も悪いことはしていない。
いきなり刀を抜いて襲いかかられたので、これを防いだだけである。
彼が冷静であった証拠に、刀を鞘から抜いてさえいない。
忠恒と師就の間には、全く面識もなく、
全くの通り魔的な犯行であった。

取り押さえられた忠恒は、すぐに目付によって取り調べが行なわれた。
忠恒の言い分によれば、自分の不行跡が将軍の耳に達すれば、
自分の領地が師就に与えられると思い込み、刃傷に及んだという。
もちろん、そのような事実はなく、
何の根拠もない、忠恒の一方的な思い込みである。
恐らくは、アルコールの摂り過ぎによる錯乱状態だったのだろう。
なんともはた迷惑なことだ。
忠恒は、その日のうちに川越藩主・秋元喬房の藩邸に預けられた。
切腹こそさせられなかったものの、領地は没収となった。
気の毒なのは、新婚早々婚家が潰れてしまった新妻だ。
取り潰された水野家と、その江戸藩邸にはその日のうちに
新妻の実家・戸田家と、先代未亡人の実家・浅野家から人夫が来て、
全ての荷物を持ち帰る騒ぎが起きた。

幕府は、先々代の藩主の子・忠殻に家名存続を認め、
これを七千石の旗本とした。
水野家の名前は残ったものの、大名ではなくなってしまったわけだ。
忠恒は忠殻の元に預けられ、蟄居して過ごすこととなった。
恐らくは、かなり肩身の狭い思いをして、
残りの人生を過ごさなくてはならなかっただろう。

この「松の廊下」第3の事件では、藩の取り潰しはあったものの、
結局、誰も命を落とさずにすんでいる。
恨みを持って刀を抜き、吉良義央に斬りかかった浅野長矩と、
酒で錯乱し、全く無関係な毛利師就に斬りかかった水野忠恒。
普通に考えれば、後者の方はかなりタチが悪く、
正直、情状酌量の余地はないように思える。
しかしながら、それでも命を奪うような裁定が出なかったということは、
かつての赤穂事件の反省が活かされたということなのか、
あるいは、日本では伝統的に酒の上での失敗には
寛容だということなのだろうか?
この事件は、後に「松本大変」と呼ばれるようになった。

かつての江戸城内で、もっとも名を知られていた「松の廊下」。
前回、今回と2回にわたって、赤穂事件以降に「松の廊下」で起きた、
事件を2つ取り上げてみた。
かたや、赤穂事件の焼き直しともいえそうな殺人事件。
かたや、酔っぱらい大名の錯乱事件。
事件の程度は違うかも知れないが、どちらも藩を潰し、
多くの人間に、大迷惑をかけたことには変わりがない。

元禄14年に起きた赤穂事件も含めて、
「松の廊下」には、潰された藩の藩士たちの怨念が
渦巻いていたのかも知れない。

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