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誰が将軍を殺したか?〜その1

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「百の頂に、百の喜び」というのは、
「日本百名山」を書いた、深田久弥の言葉である。

同じように見える山であっても、
それぞれが、決して代わりのきかない
オンリーワンであることを意味している。
そしてこれは、「人間」というものにあてはめてみても、
同じことである。
同じように見える「人間」であっても、
それぞれの「人間」には、それぞれの生き方があり、
それぞれの死に方がある。
特に「死」というものは、それぞれの「人間」の善悪、
健康・不健康、頭の善し悪し、社会的な身分などが
どんなに違っていても、最後に必ず訪れるという点で、
全ての「人間」に、平等であるといえる。

今回は、このうち、社会的な身分において、
日本国内で最高峰であった、
江戸時代の15人の将軍の「死」について、
取り上げてみたい。
彼らは、江戸時代という1つの時代において、
身分・権力の最高峰にあった15人である。
当然、いいものを食べていただろうし、
その周りには、その時代最高の名医が集められ、
常に健康であるようにと、医療的な処置が行なわれていただろう。
そんな15人が、果たしてどのような最期を迎えたのか?
1人1人、検証していきたい。

まず1人目は、初代将軍・徳川家康だ。
彼は1542年、三河岡崎城に生まれ、長い人質生活を送った後、
独り立ちし、織田信長・豊臣秀吉と同盟・臣従しながら、
ついに征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。
そういう意味では、他の将軍とは違い、
最初から日本一の権力者の位置にいたわけではない。
彼が、日本一の権力を手に入れたのは、ほぼ晩年に近い年齢であり、
そこまで生き延びることが出来たのは、
ひとえに彼の健康に気を使う性格のためのようだ。
彼は、麦飯に豆味噌、野菜を常食とし、生水は決して飲まなかった。
野菜や果物は旬の新鮮なものを食べ、煙草を吸わず、
鷹狩りなどをマメに行なって、身体を動かすことを心がけた。
薬草にも詳しく、自分で薬研を使って薬を自作していたという。
現代においても、充分に通用するような健康管理である。
75歳というのは、当時にすればかなりの長寿であり、
60歳を越えてなお、子供を作ることが出来たというのだから、
精力も強かったのだろう。
ただ、そこまで健康的な生活をしていたにも関わらず、
体型はかなりの肥満体で、下腹が出ており、
自分で帯を締めることが出来なかったという。
この点、彼の粗食ぶりを見ると不思議な感じがするが、
量はたくさん食べていたのかもしれない。
彼の死因は、「鯛の天ぷらを食べすぎたため」と
いわれることがあるが、実際には、
これは体調を崩した1つのきっかけに過ぎず、
彼が亡くなったのは、鯛の天ぷらを食べた3ヶ月も後のことである。
普段の粗食ながら、太っていたということを考えると、
生来、内蔵が丈夫で健啖家だったのだろうが、
それでも75歳という高齢で、油っこいものの食べ過ぎは、
身体に大きなダメージを残した、ということだろう。
現在では、彼の死因は
末期の胃がんだったのではないかといわれている。

2代将軍・徳川秀忠は、家康の後を継ぎ、44歳で将軍となった。
彼も父親同様、律儀な性格で、煙草を吸わなかった。
そればかりか、1616年には「煙草禁止令」を出している。
(もっともこれはほとんど守られず、形骸化していたようだが……)
彼もまた、将軍職を息子である家光に譲って大御所となったが、
54歳で胃がんのため、亡くなっている。
家康に続く、胃がんによる死亡だが、
彼の場合、偉大な父親を持ったことによるストレスと、
男色に耽る息子を持ったことによるストレスが、
胃腸にダメージを与えていたのではないかと、考えられる。

3代将軍・徳川家光は、すでに江戸幕府が誕生した後に
生まれた将軍であり、自らを「生まれながらの将軍」と称している。
ただ、彼は幼少のころから病弱であり、
20歳になるまでにマラリヤや脚気を患った。
26歳のときには重い疱瘡にかかり、生死の境を彷徨った。
このとき、彼の乳母であった春日局は、
「自分は、以降、鍼灸の治療や服薬を一切しないので、
 家光の命を救ってくれるよう」に、神に誓いをたてたという。
その甲斐あってか、家光は無事に持ち直したが、
彼女は生涯誓いを守り、死ぬときまで
鍼灸の治療も服薬もしなかったという。
ただ、彼の場合、少々性格に難があったのか、
少年時代には、両親が自分より弟を可愛がることを悲観して
自殺を図ったり、成人してからは男色に耽ったりした。
度々、鬱病になっていたという記録も残っている。
47歳のときに脳卒中を起こして歩行が困難になり、
翌年、再び脳卒中を起こし、帰らぬ人となった。
享年48。
高血圧気味だった様である。

4代将軍・徳川家綱は、生後間もなく急性脳症を患った。
奇跡的回復はしたものの、父親同様、病弱な体質だった。
父親が急死したため、11歳で将軍職を継いだが、
性格は温順で、活発に動き回るようなことは無かったらしい。
41歳のとき、突然、体調不良を訴え、
そのわずか1週間後には帰らぬ人となった。
死因に関してははっきりとしていないが、
何らかの急性疾患を患ったものと思われる。
性的にも虚弱だったのか、1人の側室も持たず、
正室との間にも子供はいなかった。
在位中、社会情勢は不穏だったが、
なんとか無事に乗り切ることが出来た。
ほとんど政治に関知せず、部下に任せっきりだったのが
良かったようである。

さて、先代家綱に子供がいなかったため、
急遽、将軍職を継ぐことになった5代将軍・徳川綱吉は、
3代将軍・家光の四男であり、家綱の弟に当たる。
上州館林藩の藩主だったが1680年、兄の死によって将軍となる。
家綱は優秀な家臣団に政治を任せきりにしていたため、
わりと何の問題も無く、その治世を終えることが出来たが、
この綱吉は政治に口を出し、
あの悪名高い「生類憐れみの令」を出して、
「犬公方」と陰口を叩かれる始末であった。
この他にも、能楽と儒学に強いこだわりを持ち、
そのこだわり方は、一種、偏執的な所があったという。
精神的に「何」かを患っていたのかもしれない。
63歳のとき、麻疹にかかり重篤な症状になったが、
なんとか無事に回復、ほっとしたところで、
餅を喉に詰まらせて死んだ。
事故死である。
思わず、正月の年寄りかっ!と、突っ込みたくなるが、
彼が亡くなったのが1月10日、まさに正月中のことといっていい。
享年64。
15人の徳川将軍の中で、唯一、事故死した将軍となった。

……。
今回、初代から5代目までを見てきたが、
どうも代を重ねるごとに、身体も精神も
弱くなってきているようである。
果たしてこの先、徳川家はどうなってしまうのか?
本当に15代目まで、無事に辿り着くことが出来るのか?
(まあ、出来るのだが……)
次回は、6代将軍以降を見ていく。

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