さて、ここまで3回にわたって、
龍野と藍、龍野と阿波の関係について調べてきた。
その結果、わかったことは、
・蜂須賀氏が、龍野から阿波に国替えになる際に、
藩内の藍職人たちを、全て連れていってしまった。
・阿波にて、龍野の藍職人たちが技術指導をして、
後に「阿波藍」と呼ばれる、高品質な藍の基礎を作った。
・以上のことは、龍野・阿波ともに言い伝えられているので、
間違いがないことらしい。
・しかし、この言い伝えの他には、龍野と藍、龍野と阿波を繋ぐ、
証拠のようなものは全く残っていない。
以上である。
つまり、蜂須賀時代以前には龍野にも、
高い技術を持った藍職人たちが、住んでいたということである。
これまでは、蜂須賀氏の移封をポイントにして、
それ以降の出来事から、龍野と藍の関係を求めていた。
今回は、蜂須賀氏以前、つまり赤松氏支配の播磨と藍の関係について考えていく。
蜂須賀氏以前、つまり室町時代から戦国時代にかけて、
播磨を支配していたのは、赤松一族であった。
龍野城の城主であった赤松氏はもちろんのこと、
御着城の城主であった小寺氏も、もともとは赤松氏であるし、
室津を支配していた浦上一族も、元は赤松氏に仕えていた一族である。
赤松氏は播磨地方のみならず、備前、美作も支配した、
室町時代では、国内有数の力を持っていた守護大名であった。
赤松氏が播磨を支配していたころ、もしくはそれ以前において、
龍野、さらに播磨地方において、
「藍染め」は行なわれていたのだろうか。
実は播磨において「藍染め」の歴史は古く、
奈良時代には、飾磨において「かち染め」と呼ばれる「藍染め」があった。
これは「褐染め」のことであり、前回紹介した阿波藍の「褐色」とは違い、
赤みは帯びておらず、ただ青を強く染め上げただけのものであった。
ただ「かち染め」も「褐色」も、強く濃く染めるという点では、
共通している。
恐らく、奈良時代の技術では、濃く染めても赤みを帯びるまでにはならず、
濃い青程度にしか、染まらなかったのだと思われる。
「褐色」になるほど濃く染め上げるためには、
「すくも」を作る技術が開発されるのを、待たなければならなかった。
平安時代、播磨地方と京都南部の鴨川下流の九条辺りの湿田が、
藍の主な生産地であった。
先に挙げたとおり、飾磨では奈良時代から藍染めが行なわれており、
それ以外でも、姫路城周辺で藍染めが行なわれていたらしい。
現在、それを示すものは残っていないが、
池田輝政が現在の姫路城を建築する際、「青見川」と呼ばれる川を、
城の濠の一部に取り込んだ。
「青見川」は、別名「藍染川」とも呼ばれており、
この近辺で、藍染めが行なわれていたことを示している。
現在、惣社にある「血の池跡」が、その場所であったとも言われている。
このように、播磨地方では古くから藍染めがさかんであったが、
それがどのようにして、龍野へと伝わってきたのかは、明らかでない。
ただ、安土桃山時代、播磨を平定した羽柴秀吉が、
主君の織田信長に飾磨の「かち染め」を献上した記録がある。
ちょうど、蜂須賀氏が龍野の領主となった時期である。
江戸時代には、姫路藩が藍染めを藩業として奨励したこともあり、
藍染めはますますさかんになった。
その後、明治に入りインド藍が輸入されるようになると、
それに押されるようにして、姫路の藍染めは絶えてしまうのである。
……話が先に進みすぎた。
少なくとも、蜂須賀氏が龍野の領主となった当時、
播磨では藍染めがさかんであり、
当然、龍野にも藍染めを生業とする集団がいたと思われる。
彼らがどういうわけか、蜂須賀氏と一緒に龍野から立ち去るのである。
どうして彼らは龍野に残らず、阿波へと移っていったのか?
羽柴秀吉によって播磨が平定された安土桃山時代、
龍野に新しい産業が誕生した。
醤油醸造である。
醤油作りは、主に揖保川の水を使い行なわれたために、
醤油屋は揖保川に沿うようにして、たちならんでいる。
恐らく、醤油醸造業者という新興勢力にとって、
揖保川の水を汚す藍染め業者は、共存できない「敵」だったのではないだろうか?
蜂須賀氏の支配下であったころ、
龍野では藍染め業者と醤油醸造業者が、敵対しあっていたものと思われる。
だから、蜂須賀氏が阿波への国替えを命じられた際、
阿波で藍の生産が行なわれていると知り、
龍野の藍染め業者を引き抜くことを、考えついたのだろう。
藍染め業者にしても、龍野に留まり、醤油業者と争いながらやっていくよりも、
藍生産のさかんな新天地で、存分に働くことを選択したのだと思われる。
かくして蜂須賀氏の移封と一緒に、龍野からは藍染め業者が消えた。
同じ播磨地方でも、姫路が江戸時代になってなお、
藍染め産業が盛んであったにもかかわらず、
龍野でそれが消え去った理由は、
新興勢力醤油産業のためだったのではないだろうか。
仮に藍染め業者が阿波に行かず、龍野に留まっていれば、
醤油産業、藍染め産業ともに足を引っ張りあい、後の隆盛はなかったであろう。
特に藍染め産業の方は、明治維新後、安価なインド藍が入ってきた際に、
阿波以外の藍の産地と同じように衰退し、
現在まで残ることはなかったかもしれない。
龍野から、阿波という新天地へ移っていった藍職人たちは、
そこで充分に力を発揮し、現在まで残る阿波藍を作り出し、
龍野の藍の血脈を、阿波藍の中に残したのだ。
さて、4回にわたって、龍野と藍、龍野と阿波の関係について書いてきた。
地名や、記録には残ってはいないが、
確かに龍野と藍、龍野と阿波の間には、繋がりが存在していた。
現在、藍染めは衰退し、阿波地方でも伝統産業・観光産業として、
細々と残っているのみである。
ただ現在では、趣味で藍染めをする人も現れ、
産業としてではなく、一種の趣味として人気が出てきている。
藍染め体験も、各所で行なわれていて、
気軽に藍染めを体験できるようになった。
そういう場所で、消えゆくジャパン・ブルーに触れてみるのも、
よいかもしれない。