前回、前々回と、龍野と藍の関係について調べてきた。
しかし、現在の所、これを裏付けるような証拠は、見つかっていない。
今回は、藍の加工の工程を見ながら、その辺りを探ってみたい。
藍の葉を傷つけてみると、青く染まる。
これが、藍染めのもとになる。
3月から4月にかけて種がまかれた藍は、7月に収穫される。
藍染めに使うのは、先にも書いた通り、葉の部分だ。
昔はこの生葉をすりつぶし、染色に使っていたようだが、
このやり方では深い色には染まらない。
深い藍色を得るためには、収穫した藍の葉を天日に干して乾燥させ、
これを室の中でじっくりと発酵させる。
これを「すくも」と呼ぶ。
この「すくも」をさらに搗き固め、「藍玉」と呼ばれるものを作る。
これを藍染めに使うのである。
この手法は、生産に高度な技術を要するため、
現在では、徳島県の阿波地方でしか、行なわれていない。
染色するためには、この藍玉を水瓶につけて発酵させてから行なう。
と、いうよりは、すくもの時からずっと発酵を続け、
染料液になっても発酵し続けている、といった方が正しい。
染料液の表面に、あぶくが出続けるのはこのためである。
このあぶくを「藍の華」と呼ぶ。
発酵することによって、藍の色素がどんどんと溶け出し、
花のように盛り上がってくるのだ。
藍の色は、染めた直後も変化する。
染料液につけた布は、最初は緑色をしている。
これが空気に触れているうちに酸化し、だんだんと青い色に変わってくる。
さらに重ねて染めることによって、青さに深みが出てくる。
色の変化は、それだけではない。
布を染め上げた藍の色素は、その後、5年、10年という年月をかけて、
繊維の奥にまで、入り込んでいく。
そうなることによって、藍はますます深みを増していくのである。
江戸時代初期に染められた着物も、300年たっても色あせる事なく、
深い色合いを保ち続けている。
明治時代になり、日本にやってきた外国人たちは、
生活に用いられている布の多くが、青色に染められているのに驚いた。
この青こそが、藍染めによる青であった。
明治11年、英国人教師のロバート・アトキンソンは、
藍染めの衣服を着ている日本人が、あまりに多いのに驚き、
「藍の説」という一文の中で、藍を「ジャパン・ブルー」と表現した。
そこまで、広く定着していた阿波藍は、明治維新を越えて、
インドからインド藍が輸入されるようになっても、衰えることはなかった。
これが衰えはじめるのは、明治時代後期、
ドイツから安価な化学染料が輸入されるようになってからである。
これをきっかけにして、阿波藍の需要は一気に落ち込んでいった。
栽培農家も藍師も困窮し、転業を余儀なくされた。
さらに阿波藍にとって、試練が続く。
第2次世界大戦が起こり、食料増産のため、藍の栽培が禁じられたのだ。
藍の種は、種のまま発芽させないでおくと、発芽しなくなってしまう。
藍を絶やさないためには、毎年新しく藍を作り、
それから新しい種を取り、翌年それを育てることを続けないといけない。
そんな藍を栽培禁止にするということは、
事実上、藍を絶滅させるということである。
ところが、阿波藍を絶滅から守るため、
これをこっそりと栽培し続けていた人がいたのである。
私財を処分しながら資金を作り、藍を守り続けた。
密かに山の中に種をまき、毎年、新しい種を取り続けた。
警察や憲兵に見つかれば、即刻処罰される。
まさに命がけの栽培であった。
やがて、戦争が終わった。
彼らによって守り続けられていた藍をもとにして、
戦後、阿波藍は復活を遂げるのである。
現在、藍染めは伝統産業、観光産業として維持されている。
さて今回、藍染めの行程をざっと、おさらいしてみた。
重要なのは、龍野から阿波へ連れて行った藍職人によって、
阿波の藍染め技術の向上を図った、という点である。
ということは、今回取り上げた藍染め技術のかなりの部分が、
龍野からの技術者によってもたらされたと、考えることもできる。
……そう考えていたのだが、どうも、藍染めの行程からも、
龍野と阿波、龍野と藍染めを結ぶラインが見えてこない。
龍野から姿を消した「藍」。
次回は、今回までとはちょっと違った視点から、アプローチしてみたい。