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明珍火箸

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たつの市の隣、姫路市の特産品の中に
「明珍火箸」というのがある。

これを初めて聞いたのは、小学生くらいのことだったろうか。
姫路の特産品は何か?みたいなことを親に聞くと、
「明珍火箸」という答えが返ってきた。

「火箸」。
当時にしても、ほとんど馴染みのない道具であった。
火鉢やかまど、囲炉裏などで、
火を扱う際に使われる金属製の箸なのだが、
かまどや囲炉裏なんていうものは、
当時でさえ、昔話の中にしか登場しないシロモノだった。
まだかろうじて「火鉢」は生き残っていたが、
自分が小学生のころといえば、
すでに暖房器具はエアコンやストーブであり、
炭を使う火鉢などは、ほとんど目にすることがなかった。
100年生きた、うちの婆さんでさえ、
寒いときにはストーブか電気コタツを使っていたわけだから、
火鉢なんて使っていたのは、うちの婆さんよりも古い世代だろう。
その火鉢で使う「火箸」が名物であるといわれても、
全くピンと来なかったのは、仕様のないことだ。
はっきりいって、そんなの作って誰が買ってくれるんだろう?と、
不思議に思ったものだった。
そのことを親に聞いてみると、
その「明珍火箸」は、風鈴として使うという。
風が吹くとチリンチリンと鳴る、あの風鈴である。
そう聞くと、こちらはますます混乱する。
なんでわざわざ「火箸」を風鈴にするのか?
さらに聞くと、音がいいからということだった。
理由になっている様な、なっていないような、微妙な答えである。
音が良いというのなら、わざわざ「火箸」を作って風鈴にしなくても、
最初から風鈴を作ればいいのではないか?

「明珍火箸」のうち、「火箸」については、まあ、意味は分かる。
問題は「明珍」である。
これは「みょうちん」と呼ぶ。
なんともミョーチクリンな言葉だ。
「明珍」とは一体何なのか?
実は「明珍」というのは、「明珍火箸」を作っている人の名前だ。
「明珍」さんが作る「火箸」だから「明珍火箸」。
至極、単純な話である。
しかし改めて聞いてみると「明珍」という苗字は、随分と珍しい。
少なくとも、自分が今まで出会ってきた人の中には、
「明珍」という苗字を持った人はいなかった。

この「明珍」さんというのは、もともと甲冑を作る甲冑師であった。
12世紀の半ばごろに、近衛天皇に鎧と轡を献上した所、
「音響朗々、光り明白にして玉のごとく、類いまれなる珍器なり」
と賞賛され、「明珍」の姓を賜ったという。
「明」白なと、「珍」器なりから、とったのだろう。
天皇に鎧を献上した、という点を見ても、
すでに名高い甲冑師だったと考えられる。
現在の「明珍」家当主が52代目を名乗っているが、
恐らくは「明珍」姓を賜る以前にも、
輝かしい甲冑師としての歴史があったのだろう。
戦国時代には、関東を中心として活躍し、
当時の17代目・明珍信家は
武田信玄着用の「諏訪法性の兜」を作ったとされる。
映画やゲームでも有名な、あの白い毛があしらわれた兜である。
さらに、同じ明珍一族である明珍宗久は、
高名な伊達政宗着用の、弦月型前立六十二間筋鉢兜を作っている。
(こちらの兜銘は、ずばり「宗久」というらしい)
戦国時代、明珍一族の作った甲冑が、
いかに珍重されていたかが分かるだろう。

江戸時代になると、明珍氏は幕府の大老・酒井忠清のお抱えとなり、
群馬県前橋市に住むようになったのだが、
明珍宗房のとき、主君・酒井忠恭が姫路藩主となったため、
これに従って、姫路に移り住むことになり、
そのまま幕末・明治維新を迎えることになった。
「姫路藩兜鍛冶明珍」と題する古絵にも
「明珍の打ちたる兜や鎧の胴は、刀では切れず、
 鉄砲の弾も通らなかった」と記されているので、
甲冑が無用の長物となった江戸時代になっても、
相変わらず高品質な甲冑を作り続けていたようだ。

ところが明治時代に入り、軍の武装が近代化されると、
兵士の兵装は全て洋式のものとなり、
甲冑は全く用いられなくなってしまう。
同業者の多くが廃業に追い込まれる中、
明珍一族にも廃業の危機が訪れる。
このとき48代・明珍宗之は、
かつて千利休の依頼を受けて作った火箸に着目し、
以降は火箸作りを生業にすることとして、
ここに「明珍火箸」が誕生することとなった。
いかに千利休が天下一の茶人であったとはいえ、
当時の最高峰であった甲冑師・明珍氏に、
火箸を作らせたというのは驚きである。
いわば刀鍛冶に包丁を作らせる様なもので、
決して快く引き受けられる仕事ではなかっただろうが、
天下人・秀吉の茶頭である利休の依頼であるため、
断ろうにも断れなかったのではないだろうか。
しかし、その火箸の仕事が、長い江戸時代を越えた後に
一族の危機を救うことになるのだから、
本当に世の中は、何が幸いするか分からない。

だが昭和に入りしばらくすると、第2次世界大戦が始まり、
「金属回収令」が発令され、原材料が手に入らなくなり、
あまつさえ仕事道具である鍛冶道具まで
供出させられることになってしまう。
このピンチを乗り越えるため、代々の家や土地を売り払ったのだが、
戦後、さらなる危機が訪れる。
エネルギーが炭・石炭から石油・ガス・電気へと移行していき、
今度は「火箸」が用いられなくなってしまったのである。
再び訪れる、廃業の危機。
だが、「火箸」が触れる際に発する「音」に着目し、
これを活かすための試行錯誤を繰り返した結果、
昭和40年に「明珍火箸風鈴」が誕生することになった。
明治維新、戦後と、何度も廃業の危機に見舞われながら、
なんとかその「技術」を活かす道を見出しているあたり、
明珍一族の発想力と柔軟性は、相当なものである。

そんな経緯を経て、姫路の特産品となった「明珍火箸」。
1つの風鈴には、4本の「火箸」が用いられ、
これを吊るす様な形で「風鈴」の態をとっている。
現在では、伝統的な素材「玉鋼」の他に、
新しい素材「チタン」を使った「火箸」や、
風鈴の他に花器やドアチャイムなども手がけており、
相変わらず柔軟に時代に適応しているようである。
ただ、商品一覧を見る限りでは、
商品の中に「火箸風鈴」はあるものの、
すでに「火箸」そのものは、無くなってしまっている。

名高い「明珍火箸」を、「火箸」として使うことは、
もうないということだろう。

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