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桃山

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「桃山」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるだろう?

大方の日本人は、歴史の授業で習った
「安土桃山時代」というのが、出てくるだろう。
出てこない人は、学生時代、歴史の授業中、居眠りしていた人だ。
そうでない限りは、戦国時代と江戸時代の間にあった、
「安土桃山時代」というのを思い出す。

「安土桃山時代」の内、
「安土」については説明の必要が無いだろう。
天下布武を謳い、東海から近畿一円に勢力を伸ばした織田信長が、
琵琶湖の東に居城を築いた。
その地こそが「安土」であり、
そこに築かれた城は「安土城」と呼ばれた。
現在でも、滋賀県の安土町には、
石垣だけとなった「安土城跡」が残っている。
では、残る「桃山」とは何か?

「安土桃山時代」というのが、
織田信長と豊臣秀吉が君臨した時代であることを考えれば、
「桃山」の部分は、当然、豊臣秀吉が君臨した時代ということになる。
だが、秀吉が居城を築いたのは、大阪であり、
そこに築かれた城も「大阪城」と呼ばれている。
では「桃山」とは一体、何なのか?

実は、秀吉の居城は「大阪城」だけだったわけではない。
京都に作らせた「聚楽第」や、
隠居後の居城として作った「伏見城」など、
彼は複数の城を築き、それらを転々と住み替えていたのだ。
だが、この内「聚楽第」は秀吉の手によって破却され、
「大阪城」もまた、大阪夏の陣で破壊された。
「伏見城」は、完成直後に地震によって破壊され、
その後、別の場所に再建されるも、
1600年に関ヶ原の戦いの前哨戦として行なわれた
「伏見城の戦い」によって破壊されてしまう。
1602年には徳川家康の手によって再建されたが、
豊臣家滅亡後、1619年には廃城とされてしまった。
この後、「伏見城跡」には桃の木が植えられ、
「桃山」と呼ばれるようになった。
……。
そう、早い話、秀吉の隠居城であった「伏見城」跡が、
「桃山」と呼ばれるようになったのは、
「安土桃山時代」より、ずっと後のことだったのである。
何というか、頭の混乱してしまいそうな事実だが、
「安土桃山時代」には、どこにも「桃山」は無かったのである。

さて、大方の人は「桃山」と聞いて、
「安土桃山時代」を思い浮かべる、と書いたが、
ごくわずかな人間に限っては、他のものを思い浮かべる。
それが、和菓子の「桃山」だ。

和菓子の「桃山」と聞いて、
すぐにその姿を思い浮かべることの出来る人は、
どれくらいいるだろうか?
スーパーの和菓子コーナーの個別包装の商品の中に、
「桃山」はひっそりと紛れ込んでいる。
淡いクリーム色をしたその表面には、
うっすらとキツネ色の焼け目がついている。
つるりときれいな表面をしているものもあるが、
その多くは、花などをモチーフにした模様が刻まれている。
さわってみると、さらさらとした手触りで、
ちょっと粉っぽいような感じもする。
栗饅頭の、ツヤのない部分に似ている。
パックリと半分に割ってみると、中は白あんになっているのだが、
ものによっては、餡の部分と皮の部分が、
くっきりと別れていないものもある。
一体どのようにして、「桃山」は作られているのだろうか?

実はその作り方も、ひととおりではなく、
微妙に違う作り方が、複数存在しているのだが、
その中から、百科事典に掲載されていた作り方を見てみると、

「白あん、砂糖、卵黄、水飴、微塵粉を材料とする。
 あんに砂糖を加えて練りながら、卵黄を少し加え、
 冷めた所であんを平らにして、
 微塵粉を入れて軽く混ぜてしばらくおき、
 次に水飴を入れて混ぜ、さらに卵黄を入れて揉み、
 適度の粘性を出す。
 これを適宜の大きさに丸め、木型や焼き印で模様をつけて、
 オーブンで焼き上げ、みりんを塗って光沢を出す」

と、ある。
微塵粉とは、米を蒸し上げて餅状にし、
これを平らに成型して乾燥させ、細かく砕いたものである。
この製法は、桜餅(関西風)の材料である
「道明寺粉」と同じである。
また、乾燥させたものを焼いてから砕いたものは、
「寒梅粉」と呼ばれ、やはり和菓子の材料などに使われる。
上記した材料を順番に混ぜ合わせ、
練ったり揉んだりした後に成型し、
焼き上げたものが「桃山」ということになる。
この手順を見る限りでは、別に用意した餡を
生地でくるむという工程が無いために、
饅頭や大福というよりは、クッキーやケーキに近い。
さらに焼き上げにはオーブンを使うという点も、
それを感じさせる。

この「桃山」が、いつごろから作られ始めたのか?
ということに関しては、詳しいことはまるで分からなかった。
ただ、「桃山」という名前の由来に関しては、
最初に書いた「伏見城跡」の「桃山」から来ているという話があった。
これを信じるのであれば、和菓子の「桃山」が作られたのは、
江戸時代、「伏見城跡」が「桃山」と呼ばれるようになった
後のことのはずである。
このことから考えると、「桃山」の表面に刻まれている花は、
「桃」の花である可能性が高いのだが、
「桃山」という名前で画像検索をかけてみると、
桃の花をモチーフにしていると思われるものの他に、
菊の花をモチーフにしていると思われるものも、
いくつか散見できた。
少なくとも、京都伏見の「桃山」から名前をとったということは、
「桃山」が作られたのも、京都か、その近辺であるはずである。
京都、ということであれば、これを作る菓子職人の中にも、
朝廷に対する畏敬の念があったのは間違いないと思われ、
そういう気分が、「菊の紋章」を象らせたのかも知れない。
いつごろから?ということになると、
「伏見城跡」に桃の木を植えて以降ということになるが、
作製の際にオーブン(天火)を使うということになると、
その時代はグッと新しくなってしまう。
江戸時代、カステラなどを焼く際にもオーブンがなかったため、
職人たちは特殊な器材を作り、それを用いていたという。
それを考えれば、とても江戸時代中に
「桃山」が作られていたとは、考えられない。
オーブンが、日本にいつ入ってきたのかは、はっきりわからないが、
やはりパンを焼くようになった明治以降のことだろう。
実際に京都は、日本でも1、2を争うほど、
パンを食べる都道府県である。
きっとオーブンが伝えられたのも、かなり早かったに違いない。
「桃山」は、これを使って作られたのではないだろうか。
だとすれば「桃山」は、存外、新しい菓子ということになる。

どこのスーパーでも売られている割に、
その名前の由来以外は、イマイチはっきりとしない「桃山」。
いつか、その「謎」が、はっきり分かる日は来るのだろうか?

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