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炊飯の歴史

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日本人は、主食としてコメを食べる。

どういう風に食べるかといえば、炊いて食べる。

これは日本全国、例外なく同じ食べ方である。

いつからコメを炊いて食べていたのか?

そんなもの、コメを食べ始めてからに決まっているじゃないか、

と思われるだろうが、それがそうでもないのである。

ちょっとご飯の歴史を見てみよう。

まず、縄文時代。

元は弥生時代に稲作が始まったとされていたが、

現在では縄文時代の後期には、すでに稲作が始まっていたというのが

定説となっている。

この稲作の最初期、縄文人たちはどのようにして、コメを食べていたのか?

実は、あまりはっきりとは、わかっていないのである。

主に玄米を土器で煮て食べていたと考えられているが、

当時はまだ文献記録のない時代なので、あくまでも遺跡の出土物から、

状況を推理するしかないのが現状である。

また、煮るだけでなく、蒸したコメも食べられていた。

これは強飯(こわいい)といい、現在でいう所の「おこわ」である。

おにぎりの回で、弥生時代後期の遺跡からおにぎりが出土したと書いたが、

そのおにぎりも強飯で作られていた。

煮たコメの方は、現在のようなご飯ではなく、粥状であったと考えられている。

やがて奈良時代になると、この粥がだんだんと固いものになっていく。

いわゆる「固粥(かたがゆ)」である。

このころには原始的な土器ではなく、土鍋でコメを煮るようになった。

恐らくは鍋を動かすことによって火加減を調節し、

固めの粥が作れるようになったのではないだろうか。

歴史的に、この「固粥」こそが、現在の白いご飯の始まりである。

平安時代に入ると、「姫飯(ひめいい)」と呼ばれるものになる。

これは現代のご飯と、ほぼ変わらないものだ。

現在でも土鍋でご飯を作ることがあるが、これはまさにそれである。

ただ「姫飯」が食べられたのは、貴族をはじめとする一部の上流階級だけで、

一般庶民はまだまだ粥を食べていた。

鎌倉時代に入ると、金属製の羽釜が作り出される。

時代劇などで、かまどの上にのせられている、アレである。

この羽釜は、「煮る」、「蒸す」という行程をまとめて、

「炊く」という作業に発展させた。

江戸時代も中頃になると、この羽釜のフタが分厚くなる。

かまどでコメを煮て、水が無くなった後、そのまま蒸し上げる。

「炊き干し」と呼ばれる炊き方である。

この「炊き干し」が、一般庶民の間にも行き渡った。

この段階になって初めて「コメは炊いて食べるもの」となるのである。

ただ、だからといって「粥」がなくなることはなかった。

「粥」は少ないコメを、多くの人間で食べれるという利点があったために、

貧困な一般庶民の間では、日常の常食としている例もあった。

もちろん、普通にコメを炊いて食べる場合でも、

麦などの増量剤を加えて、「かて飯」として食べることが多かった。

この状況は、昭和に入り、コメが充分に生産されるようになるまで続いた。

かまどでご飯を炊くといっても、我々には想像もつかない。

すでに生まれたころから、コメは炊飯器で炊いていたからだ。

炊飯器が初めて作られたのは、昭和12年(1937年)のことだ。

旧日本陸軍が制式採用した「九七式炊事自動車」に装備された、

「炊飯櫃」がそれである。

これは木製の四角い箱の中に電極を取り付けたもので、

中に研いだコメと水を入れ、電極に電気を通すと中の水が発熱し、

炊飯を行なうというものだった。

コメが炊きあがると水が蒸発して抵抗値が増大し、発熱量が少なくなり、

そのまま保温状態になる。

しかしこれは炊き加減が一定せず、感電の危険性も高かった。

家庭用の炊飯器が初めて登場したのは、昭和30年(1955年)のことである。

これには、コメが炊きあがると自動的に電源がオフになる機能がついており、

炊飯器の側で炊きあがりを待つ必要がなかった。

この電気式炊飯器は大ヒットし、各社も様々な新機能を加えた製品を発売し、

これに追随した。

以降、タイマー付き、保温機能付き、マイコン制御、IH方式、圧力釜仕様、

遠赤外線式、おこげ機能などなど、様々な炊飯器が世に出ることになった。

現在、かまどでコメを炊くことは難しい。

どこにも、かまどが残っていないからだ。

そんな状況で、かまど気分を味わえるのが、飯盒炊爨(はんごうすいさん)だ。

この飯盒、実は日本生まれではない。

うっかりすると、野外でご飯を炊くために旧日本軍辺りが開発を……、

などと思ってしまいがちだが、これは19世紀末ごろにヨーロッパで作られた。

もちろん、野外用の調理器具としてである。

日本には明治維新後、軍隊の洋式化の際に移入された。

当初は食器としての機能しか持たなかったが、明治23年(1890年)、

陸軍によって調理機能をもった飯盒が作られた。

日本製の飯盒は、コメを炊くことに特化した作りになっている。

現在では、登山用の携帯コンロやクッカーの進歩、

フリーズドライ食品の開発などによって、飯盒は使われなくなっている。

現在でも、飯盒が使われているのは、学校行事のキャンプなどのみである。

そういえば、かまどでご飯を炊く際の注意点として、

「始めちょろちょろ、中パッパッ、赤子泣いてもフタとるな」

というのを、小学校の家庭科の時間に教わった。

もちろん、教わっただけで、調理実習でも電気炊飯器でご飯を炊くのだが。

この「赤子泣いても」の所を、「親が死んでも」に変えたものもあるらしい。

とりあえず、絶対にフタを取るなよ、ということらしいが、

普通は「赤子が泣けば」、すぐに赤子をあやして、

釜のフタなど放ったらかしだろうし、

「親が死んだら」それこそ、釜のフタどころではあるまい。

どうも、モヤモヤしたものが拭えない教えである。

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