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姫路おでんの謎

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前回、姫路市の名物「姫路おでん」について取り上げた。

その中に、誕生した当時の姫路のおでんは、

関西風ではなく関東風であったという、証言があった。

どうして関西圏の播磨地方のおでんが、関東風だったのか?

今回は、この「姫路おでん」の謎について考察していく。

まず、おでんのダシについてみてみよう。

一般的に、関東のおでんダシは鰹節を中心としていて、

昆布はあまり使われない。

これは関東の水が、昆布でダシをとるのに向いていない、ということが大きい。

そのため、関東のダシは鰹節のイノシン酸が中心となり、

昆布で得られるはずのグルタミン酸が、不足してしまっている。

これを補うために、グルタミン酸を含んでいる調味料、

醤油を大量に使ってきた。

これがいわゆる「関東のダシ」である。

これに対して、関西では昆布を中心としてダシがとられる。

もちろん、水が昆布からダシをとるのに向いているのと、

北前船が日本海、瀬戸内海を経由して運んでくる昆布が、

大阪に大量に陸揚げされていたからである。

江戸へは、大阪から菱垣廻船などによって運ばれたが、

前述の水の問題もあり、江戸では昆布はあまり使われることはなかった。

関西のダシは、昆布ダシのグルタミン酸と、

鰹節・サバ節・いりこダシなどイノシン酸のバランスが良い。

必然的に醤油の使用量が減るため、薄味の「飲めるダシ」となる。

これがいわゆる「関西のダシ」である。

「姫路おでん」の場合、播磨地方という関西圏にありながら、

「関東のダシ」で炊いた「関東炊き」であったことが、明らかになっている。

どうして「姫路おでん」は、「関西のダシ」で作られなかったのか?

結論をいってしまえば、明治時代中頃から昭和初期ごろまで、

播磨地方には鰹節も昆布もなかったのである。

何、言ってるの?

鰹節も昆布も、普通に作られていたんだから、

無いなんてことがあるワケないじゃないの、と思われるだろう。

ところが、無いなんてことがあったのである。

日本国内で昆布が採れるのは、北海道を中心とした一部のみである。

国内に流通している昆布は、全てここから運ばれてくる。

同じように、鰹節を作っているのは、鹿児島、高知、和歌山、千葉など、

太平洋に面している所が多い。

つまり、昆布も鰹節も播磨地方では全く生産されず、

全て他の地方から、運ばれてくるのを待つだけである。

これが、明治中期から昭和初期にかけて、

播磨地方から鰹節と昆布が無くなった遠因となる。

江戸時代、播磨地方には、鰹節も昆布も充分にあった。

これは北前船が、播磨最大の商業港・室津に寄港していたからである。

ここで大量に買いつけられた各物資は、

陸路・海路・川などを通じて、播磨地方各地に送られていった。

ところがこれに、大きな転換点が訪れる。

明治維新である。

室津の商人たちにとって、大きな収入源になっていた、

参勤交代がなくなってしまったのである。

これによって、室津の商人たちは力を失い、

それと同時に、室津の商業港としての能力も落ちはじめる。

北前船は、明治時代になっても続いていたが、

これと取引をする、室津自体の力がなくなり、

播磨に各種物資が入ってこなくなった。

播磨にはもうひとつ、的形の韓泊という港もあったが、

室津に比べると規模も小さく、商業港としての力は無かった。

こちらはあくまでも風待ち、あるいは緊急避難用の港であったようだ。

また、江戸時代に存在していた、様々な規制がなくなり

船自体の航行性能が高くなり、途中停泊する港の数も減ってきていた。

つまり、明治時代中期にいたり、播磨は海上輸送から、

切り離される格好になったのだ。

この時、海路を通じて運ばれてきていた鰹節と昆布が、入ってこなくなった。

本来ならこれは大事である。

料理の基本ともいえるダシの素、鰹節と昆布が入ってこなくなったのだ。

下手をすれば、料理が成立しなくなる。

しかし、そんなことは起きなかった。

何故か?

鰹節や昆布に代わる、ダシの素が播磨に存在していたからである。

それが「いりこ」であった。

「いりこ」とは、いわゆる「煮干し」のことで、

カタクチイワシなどの小魚を煮て、天日で乾燥させたものである。

鰹節や昆布に比べると、ずっと安価であった。

海路を通じて入ってきていた、鰹節や昆布が入ってこなくなった時、

そのかわりとして、この「いりこ」が、一気に広がっていったものと思われる。

やがて国内に鉄道網が敷かれ、輸送の主力は陸上輸送にシフトしていく。

そして北前船はなくなってしまう。

こうして鉄道網が引かれたことにより、再び播磨に鰹節と昆布が

持ち込まれるようになった。

しかしすでに播磨地方では、鰹節や昆布を使う習慣がなくなってしまっていた。

大正末期から昭和初期ごろの、県内一般家庭の食料品の購入記録を見てみると、

播磨地方では昆布の購入記録が無い。

兵庫県内でも、明石や丹波などでは、昆布を購入している所を見ると、

やはり播磨地方では、昆布を使わなくなっていたようだ。

つまり明石や丹波では、いりこと昆布でダシを、

播磨ではいりこのみで、ダシをとっていたことになる。

つまりこの時期に作られた「おでん」というのは、

「いりこ」ダシによって、作られていたと考えられる。

「いりこ」からとれる旨味成分は、イノシン酸である。

鰹節と同じである。

そして昆布を使う習慣が無くなっていた当時の播磨では、

グルタミン酸の旨味を補うために、大量の醤油を使ったと思われる。

幸い醤油は、播州龍野の名産品である。

たとえ海上輸送がなくなっても、醤油生産には全く影響がなかった。

そう、昆布を使う習慣がなくなってしまっていた播磨地方では、

必然的に「関東のダシ」とかなり似たものを作り出したのだ。

こうして「姫路おでん」は誕生した。

まったく関東とはつながりの無い播磨の地で、

鰹節を地元産の「いりこ」に代え、

地元産の醤油を使い、きわめて関東風に近い、

しかし鰹節に代わり「いりこ」を使っているため、

微妙に違うものとして、である。

後に、昆布が再び使われるようになり

「関西風のおでん」も作られるようになった。

しかし、現在でも「関東風のおでん」は、播磨地方で食べられている。

したがって「関東風」、「関西風」という分け方では「姫路おでん」を

分類しきれず、「生姜醤油」という「括り」で認定するしか無かったのである。

今回、どうして播磨で「関東風」のおでんが作られ出したのかについて、

考察した。

次回は、どうして「生姜醤油」を使うようになったのか?

その謎に迫ってみたい。

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