前回、「車池」の伝説が作られたのが、江戸時代のことであると考察した。
今回は、どういういきさつで、この「車池」の伝説が出来上がったのか、
その辺りを考察していきたい。
一般的に、池や川に化け物などが出てくる場合、
その目的は「子供を危険な場所に近づけさせない」であることが多い。
この場合、物語はおどろおどろしく、不気味なものだ。
大前提として、子供を怖がらせなければならないのだから、
これは当然である。
では、この「車池」の伝説の場合はどうだろう?
おどろおどろしいか?と言われれば、そんなことはない。
大蛇の巨大さや、能力については強調されているが、
その容姿の恐ろしさ、凶暴さに関しては、全く語られていない。
それどころか、大蛇は若く凛々しい男性の姿で現れるので、
むしろこの話を聞いた子供は、
一度、その大蛇を見てみたいと思うかもしれない。
これでは「子供を危険な場所に近づけさせない」という目的は果たせない。
この話を読み返してみると、
娘を池のほとりに連れてきた村人たちは、大蛇が娘を連れ去る前に、
村に逃げ帰っており、誰1人として大蛇の姿を見ていない。
つまり、池のほとりに1人で放り出された娘がどうなったのかは、
完全に村人の「想像の産物」なのである。
娘が池のほとりに取り残されてからの記述は、
やたら美しさを強調したものになっている。
大蛇が化けている若者は凛々しく、その衣もきらきらと輝いている。
池の水面も、星のようにきらきらと光ったと記されている。
そんな夢のような美しさの中で、大蛇と娘は池の中に消えていく。
そこからは、人身御供にされたという陰鬱さを、全く感じない。
そもそも、超常現象が起きているのは、村人が逃げ帰った後のことである。
それまでは、ただ大雨が降っていただけに過ぎない。
それを村人たちが勝手に、大蛇が怒ったことにしてしまった。
もちろん、大雨が大蛇の仕業である証拠は何もなく、
村人たちの勝手な思い込みに過ぎない。
この物語から、村人の逃げ帰った後をカットすると、
大雨で苦しんだ村人が、これをなんとかするために、
娘を池のほとりに連れていったというだけの話になる。
まるで業務連絡だ。
いや、そもそもこの話、大蛇の部分を取り除いても成り立つのではないか?
一度、この話から「大蛇」という、ファンタジーな部分を取り除き、
その空いた所に現実的なモノを入れて、再構成してみよう。
まず、名もない池がある。
何かしら、名前はあったかもしれないが、現代まで残っていない。
ある年、長雨が続いた。
もちろん、一面水浸しなどという事態は考えられないが、
谷川は存在しているので、土石流くらいなら起こった可能性がある。
土石流が山で起こった場合、もっとも被害を受けるのは麓の村だ。
土石流が起きても、なおも雨は降り続く。
このままでは第2、第3の土石流が起こるかもしれない。
不安にかられた村人達は、追いつめられ、まともな判断ができなくなる。
彼らは「人身御供」という、原始的な生け贄を捧げることに決めた。
当然、村の中でも立場の弱い、貧しい家の娘が選ばれることになった。
村のため、という言葉の元、無理矢理引き受けさせられたのではないだろうか。
娘を水源地に近い池につれて行き、そこへ沈める。
半ば、無理矢理選ばれた「人身御供」だ。
いざ生きたまま池に沈められるとなると、死ぬのが怖くなり、
必死に抵抗したことも、容易に想像できる。
それを取り押さえて、無理矢理池に放り込む。
逃げられないように縛り上げられ、重石などもつけられただろう。
なんとも陰鬱な「人身御供」の情景である。
やがて、降り続いていた雨も止む。
雨が止んだ後には、何の罪もない娘を池に沈めて殺した事実だけが残る。
この陰惨な事件を隠すため、そして自分たちの罪悪感をごまかすため、
美談仕立ての「車池」伝説が誕生したのではないか?
娘が水の中に入って行く場面では、特に美しい情景が語られる。
これは、そこに隠された陰惨な殺人を隠蔽するために、
必要以上に美しさを必要としたのではないか。
そう仮定すれば、大蛇の嫁にはなったが、
死んでもいない娘の墓を作ったことも、納得できる。
その後、夜になると糸車をまわす音が聞こえてきたという。
これも冷静に判断すると、おかしい。
糸を繰る仕事は、わざわざ夜にやるようなものではない。
手元の明るい、昼にやる仕事のはずだ。
娘の家が貧しかったのなら、わざわざ灯りをともしてまで、
夜にやったとも思えない。
では、この夜に聞こえてきた糸車の音とは、一体何だったのか?
恐らく、池で娘を殺害した村人の中に、
正気を保てなくなった者がいたのではないだろうか?
なんといっても、罪もなく、助けてと哀願する娘を殺害したのだ。
普通の人間なら、深い罪悪感に苛まれるだろう。
ストレスから眠れなくなり、幻聴なども聞こえたかもしれない。
死んだ娘の声、あるいは彼女に繋がる音など……。
その音こそが、「糸車」の音だったのだ。
気の触れた村人達は、夜になると「糸車」の幻聴を聞き、おびえたのだろう。
それが、池から「糸車」の音がするという伝説になったのだ。
「車池」の伝説から、ファンタジー要素を排除してみると、
そこに、なんとも陰鬱な殺人事件が見えてくる。
これを隠すために、美談仕立ての物語が作られたのだ。
もちろん、ここに書いたものは、物語の中の現実的な部分だけを取り出し、
間を埋めて、再構成したものに過ぎない。
こういう事実があった、という証拠など何もない。
しかし物語の現実的な部分と、非現実的な部分を見極めることで、
隠された真実を、浮かび上がらせることができる。
そして、そこには恐ろしい人間の本性が、見え隠れしている。
……。
と、以上、いろいろ好き勝手に書いてみた。
さすがに調子に乗りすぎたと、反省している。
今回は、伝説からファンタジー部分を抜くことによって、
「車池」伝説成立の背景について、考察してみた。
次回は、「嫁」というポイントに注目して、
この伝説を別の角度から考察してみる。
次回の考察は、今回ほど陰惨なものにはならない、予定である。