昔、神戸に住んでいた親戚が、「煎餅屋」であった。
普通「煎餅」といえば、かき餅状のタネを炭火の上で焼き、
醤油を塗り、さらに焼き上げたものを思い浮かべるが、
親戚の煎餅屋では、そういったものを全く焼いていなかった。
その親戚がうちに遊びにくる時に、
焼き損ないの煎餅などを、持ってきてくれるのだが、
これが毎回、一斗缶の中にぎっちりと詰め込まれていた。
(湿気るのを防ぐために、一斗缶の中に詰め、乾燥剤を入れていた)
その中に入っていたのが、「瓦煎餅」であった。
もちろん、中に入っているのは瓦煎餅だけでなく、
様々な種類の煎餅が入っていたのだが、
どれも基本的には、瓦煎餅の生地にアレンジを加えたものであった。
今回はこの「瓦煎餅」について書いていく。
一般的に言われる「煎餅」は、醤油味か塩味である。
しかし瓦煎餅は、これらの一般的な煎餅とは違って、甘い。
普通の煎餅は、上新粉で作ったかき餅状のタネを焼いていく。
しかし瓦煎餅は、小麦粉、卵、砂糖などを混ぜ合わせた生地を焼いていた。
成分的には、洋菓子のクッキーやビスケットに近い。
子供のころは、どうもこの甘い煎餅というのがしっくりとこなかったのだが、
大人たちは、お茶請けとして美味しそうに食べていた。
瓦煎餅は、神戸や高松などで郷土菓子として作られている。
あちこちの店が「元祖」を名乗っており、
親戚が持ってきてくれたものにも、
「元祖」と印刷された紙が入っていた。
瓦煎餅の由来については、諸説ある。
神戸の「亀井堂総本店」では、
1873年、開港地だった神戸の特性を利用して開発したもので、
瓦の形をしているのは、店主の趣味であった「瓦収集」に由来しているとある。
瓦煎餅が成分的に洋菓子に近いことからも、
外国人と関係があった可能性はある。
また瓦の形をしていることについても、一応の説明がなされている。
同じ神戸でも、「亀の井亀井堂本家」の説明では、
弘法大師が中国から伝えたとされている。
瓦の形については、湊川神社の瓦寄進の際に売り出されたからというものと、
戦国時代、瓦に焼き印を押し、功績の証とした故事にちなむとの説がある。
ただ、弘法大師が伝えたとしても、当時の日本には
卵を食べる風習がなかったので、瓦煎餅が作られることはなかったはずだ。
さらに弘法大師の生きた奈良・平安時代には、
まだ神戸辺りは開発されておらず、ひなびた漁村に過ぎなかった。
そこに菓子作りを伝えたというのも、無理がある。
また、湊川神社が建造されたのは、明治時代である。
戦国時代の「瓦に焼き印」の故事しても、弘法大師の時代とは離れすぎている。
さすがにこの説は、苦しいといわざるを得ない。
高松の「宗家くつわ堂」では、
「和三盆の産地」という特性を生かして開発されたものだとしている。
瓦の形状をしているのは、高松城の瓦を模したためとなっている。
和三盆が作られたのは、1800年代前半、江戸時代後期である。
このころには、卵を食べる風習も一般化していたので、
原材料の点で見る限り、矛盾はない。
このくつわ堂の創業は明治10年(1877年)なので、
亀井堂総本店とほぼ同時期である。
厳密にいえば、亀井堂総本店のほうが4年はやい。
「元祖」がどちらかという判断は避けるが、このどちらかが「元祖」であろう。
原材料が小麦粉・卵・砂糖と、ビスケットやクッキーなどとほぼ同じ材料であるが、
瓦煎餅はこれらに比べ、焼き上がりは固い。
クッキーなどは、生地に大量の脂分を含んでいるので、
その食感はサクサクとした軽いものになる。
味わいにしてみても、クッキーは糖分+脂分=食欲増進という公式どうり、
後を引く味わいになっているが、
瓦煎餅の場合、この脂分をほとんど含んでいないので、
あっさりした味わいのわりには、早めに満腹感を感じる。
親戚の煎餅屋には、卵を泡立て、柔らかく焼き上げたものもあったが、
基本的に瓦煎餅というのは、固い焼き上がりである。
子供受けするお菓子というよりは、大人向けのお菓子である。
子供のころ、その親戚の家に遊びにいったが、
道に面した4畳半ほどの狭いスペースに、売り場と工房が詰め込まれていた。
今、考えてみれば、恐ろしいほど小さな店舗であったが、
いつも煎餅の焼き上がる、甘い、いい匂いがしていた。
その匂いに誘われるように、近所のお客さんが頻繁に足を運んできていた。
小さいながらも、お客に愛されている店であった。
その店も、阪神淡路大震災で被災し、廃業してしまった。
以降は瓦煎餅を食べることもなくなり、ずいぶんな時間がたった。
今でもあの瓦煎餅の味を覚えているあたり、
やはり、ウマい煎餅だったのだなと、感じている。