雑学、雑感、切れ味鋭く、思いのままに。

Falx blog 2

食べ物

三笠

投稿日:

前回、戦艦大和について書いた。

大和はまさに、栄光の日本海軍の最後の象徴とも言える船だった。

物事には最後があれば、当然最初もある。

今回は栄光の日本海軍、最初の象徴とも言える船について取り上げたい。

そう、戦艦三笠である。

かつて無敵を誇った帝国海軍最後の象徴、というふれこみはよく聞く。

大和の悲劇性を強調した場合に、こういうフレーズを使うことが多い。

その無敵の帝国海軍の歴史を遡っていくと、

それは約40年前の日本海海戦にたどりつく。

そう、日露戦争における日本海海戦こそが、

後に無敵を誇った帝国海軍の、その歴史の始まりであった。

この日本海海戦より、さらに歴史を遡ってみる。

日本の歴史の中で、軍船が著しく発達した最初は戦国時代のことである。

それまで、日本における海戦というのは、船を接舷させての白兵戦が主であった。

だがこの戦国時代にいたり、日本の軍船には大砲が搭載されるようになり、

船体自体もそれにあわせて重厚化、巨大化していく。

この頃造られたのが、「安宅船」と呼ばれる、巨大戦艦である。

まさに海の要塞と言える巨大戦艦で、その大砲による火力で

海の王者と言える存在であった。

が、国内での戦いが多かった我が国では、

艦隊戦が戦いの帰趨を決めることはなかった。

徳川家康は江戸幕府をひらいてから、各大名に軍船の新規開発を禁じ、

それまでに保持していた軍船のほとんどを破棄させた。

さらに将軍家光が鎖国政策をとるにいたり、我が国での船舶技術は

ほぼ200年以上発展することはなかった。

この間、商船は多少の発展を見た。

俗に千石船といわれる大型の輸送船の開発である。

が、国民と諸外国の接触を恐れる幕府は、この民間の船舶開発にも

暗に圧力をかけていた形跡がある。

日本の船に帆柱が一本しかないのは、幕府の圧力によるものとされる。

やがて200年の長きに渡った幕府の支配力にも、翳りが見え始める。

各地に外国船が姿を現し、北からはロシアが領土拡大の野望を持って

千島列島、北海道に迫っていた。

ここにいたり、幕府は船舶建造禁止令を撤廃。

各藩に新船舶の建造を促した。

この時期、姫路藩も室津港において「速鳥丸」という新船舶を建造している。

しかし明治維新によって江戸幕府は、政権を朝廷に返上し、

対外国政策は新政府に託されることになった。

260年間、外国との交流をほとんど持たなかった日本は、

船舶建造技術についても大きく立ち後れていた。

このため、明治政府はかなりの長期にわたり、国家防衛のための軍艦を

外国より購入するしかなかった。

日本海海戦における日本海軍の旗艦三笠もまた、外国製の戦艦だった。

戦艦三笠。

全長131m、総排水量15140t。

イギリスのヴィッカース社製のこの超弩級戦艦はまさに当時の最新鋭艦だった。

主砲は40口径30.5㎝連装砲、最大射程は約10km。

日本海海戦において、東郷平八郎の座乗艦となり、

ロシア・バルチック艦隊を打ち破った。

戦後、長崎で謎の爆発事故を起こし、海軍凱旋式では戦艦敷島が

代わって旗艦となっている。

現在は神奈川県横須賀市の三笠公園内に固定され、保存されている。

前回で見た大和のスペックとは、比べること自体が間違いであるが、

全長は大和の半分、排水量は4分の1以下である。

主砲の最大射程も大和の4分の1だ。

しかし1900年の日本では、この三笠ですら自国での建造はできなかった。

実に大和建造の40年前のことである。

この三笠がその性能を最大に発揮した戦いこそが、日本海海戦である。

東郷ターン、丁字戦法、Z旗等々。

有名な言葉もいろいろとある。

「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。

 本日天気晴朗といえども波高し」

「皇国の興廃、この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」

などは、漫画や小説などでも、よく引用される言葉である。

この日本海海戦において日本海軍は、当時世界最強と言われていた

ロシア・バルチック艦隊相手に、圧倒的な勝利を収めた。

この勝利によって、日本は列強への道をひた走り、

後の軍事国家日本へと、突き進んでいくことになる。

一方のロシアは、この日露戦争でのダメージがロシア革命を引き起こし、

やがて帝政ロシアの崩壊へと向かっていく。

日本とロシア、2つの国にとって大きな転換点となった、運命の海戦だった。

そしてその運命の海戦の主役こそが、戦艦三笠であった。

建艦当時は、最新鋭艦としての性能を誇った三笠も、次々に開発される

新型艦の前には太刀打ちすることはできず、やがて廃艦となる。

が、日本海海戦での活躍から保存運動が起こり、

現在のように三笠公園内に保存されることとなる。

現在では、三笠の人気は大和の人気にまるで及ばない。

前回の例をとり、模型店の店先を見ても、

三笠のプラモデルがおいてあることはまずない。

何が言いたいかというと、三笠のプラモデル欲しい。

これにつきる。

Related Articles:

にほんブログ村 その他生活ブログ 雑学・豆知識へ
にほんブログ村

スポンサーリンク
スポンサーリンク

-食べ物

Copyright© Falx blog 2 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.