初夏から夏にかけて、各地で花火大会が執り行われる。
熱さの厳しいこの季節、夕涼みがてらの花火見物は、夏の風物詩といえる。
涼しい夜風。
浴衣をきた人々の群れ。
立ち並ぶ屋台。
やがて、暗くなった夜空に、色とりどりの花火がうち上がる。
まさに日本の夏の風景だ。
今回は、この「花火」について書いていく。
ひとえに花火といっても、様々な種類がある。
夜空に大輪の花を咲かせる、打ち上げ花火。
様々な仕掛けで見ている人を楽しませる、仕掛け花火。
さらに家の庭先で楽しむ、おもちゃ花火。
子供のころ、ロケット花火や、爆竹、ねずみ花火や煙玉を使って、
いたずらに精を出した人もいるだろう。
花火の元となる火薬は、紀元前の中国で生まれた。
不老長寿の薬を作ろうとした錬丹術師が、実験中に硫黄と硝石を混ぜ合せると、
激しく燃え上がることを発見したのが、その始まりである。
当時の中国では、硝石を医薬品として用いていた。
やがて、煙を狼煙として使用するなど、火薬としての使用が始まった。
その後、火薬は兵器としても使用されるようになり、
急速に物騒なものになっていく。
13世紀、イスラム諸国を経て、ヨーロッパに火薬がもたらされる。
ここでも兵器として用いられたが、
このころ、花火としての火薬の使用が始まる。
現在のような花火は、14世紀後半、イタリアのフィレンツェではじまった。
16世紀になると、花火はヨーロッパ諸国に広がり、
18世紀には、王侯貴族が花火職人を召し抱え、花火大会を催すようになった。
特に「ロシアの父」と呼ばれるピョートル大帝は、花火好きで知られ、
自ら花火を作り、その打ち上げを演出していた。
彼は皇帝であると同時に、花火職人でもあったのだ。
日本が初めて火薬と関わったのは、1274年の文永の役のことである。
日本に襲来してきたモンゴル軍は、「てつはう」と呼ばれる火薬兵器を用いた。
これは一種の炸裂弾で、爆発の火力によって中に仕込まれた鉄片が飛び散り、
敵にダメージを与える、というものであった。
さらに1543年、種子島にやってきたポルトガル人によって、
鉄砲と火薬が伝えられた。
これから30年後の1575年には、織田信長が長篠の戦いに鉄砲を使用。
この30年の間に、日本は火薬を実用化させたということになる。
これ以降、火薬は武器として、日本全国に広がり、発達していった。
初めて花火が作られたのは、江戸時代にはいってからである。
1613年、徳川家康が中国人によって打ち上げられた花火を見物したことが、
日本花火の事始めとなった。
これをきっかけにして、将軍家や各大名の間で、花火がブームがおこる。
花火ブームは江戸庶民の間にも広まっていくが、花火による火災も多く、
「花火禁止令」が出されたこともあった。
江戸時代の花火は、現在のようにカラフルではなく、赤橙色の一色のみであった。
花火がカラフルになっていくのは、明治時代、塩素酸カリウムが輸入され、
花火に使われるようになってからである。
明治20年ごろには、赤、青、緑の花火が誕生した。
花火職人達は、これ以前の赤橙色一色の花火を「和火」、
これ以降のカラフルな花火を「洋火」と呼んだ。
では日本の花火と、外国の花火はどう違うのだろう?
現在、打ち上げられている日本の花火は、丸いものが多い。
これは花火玉自体が、球形をしているためだ。
これに比べ、外国の花火は楕円形のものが多い。
花火玉自体も球形ではなく、筒型や楕円形をしている。
さらに日本の花火は、多重構造になっていて、色が変化する。
多いものになると、5回も色が変わることがある。
これに比べると、外国の花火は色は単色のまま、変化することはなく、
花火の構造自体も単純なものが多い。
先に花火を「和火」、「洋火」と分けたが、
現在、日本国内では「洋火」が圧倒的に多く、「和火」は海外に多い。
なんとも皮肉な逆転現象だ。
近年、花火大会を観に行くと、周りの観客が皆、
携帯のカメラで花火を撮影している。
1人や2人ではなく、ほぼ半数以上の人間が、小さな携帯の画面越しに
花火を見ているのだ。
自分の周りの友人たちも、携帯を構えて、花火の撮影に余念がない。
どうせ後で見直すにしても、携帯の小さい画面か、
せいぜいパソコンのディスプレイ程度のものだろう。
……というより、花火の写真などを、後でしみじみ見直すとも思えない。
せっかく目の前でド迫力の花火があがっているのだから、
普通にナマで楽しめばいいのに……、と思うのだが、
これは余計なお世話なのだろうか?