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戦艦長門

更新日:

よく、「うちのご先祖様は〜」なんていうことを
自慢する人間がいる。

例えば、
うちのご先祖は、有名な戦国武将の部下だったとか、
うちのご先祖は、あの○○の子孫であるとか、
うちのご先祖は、○○の戦いで手柄を立てて
殿様からご褒美を頂いた、なんてやつである。

ご先祖様というのは、いわばその人間のルーツである。
そこに栄光を求めたくなる気持ちというのは、
理解できなくもない。
ただ、これをいえば、気を悪くされる人もいるかと思うが、
この手のご先祖様の話というのは、
大概が眉唾物である。
この手の話には
マトモな証拠というのがないのが普通であるし、
歴史的な検証をしてみれば、
その話自体に矛盾が生じることもある。

特に「戦国時代の〜」とか、
「源平の戦いの〜」なんていうフレーズが出てくれば、
10に1つも、正しいものはないと考えておいた方が良い。
面白いことに、歴史について興味があり、
良く勉強をしている人間は「そういうこと」をあまり口にしない。
その手の、家に言い伝えられている話というのが、
いかに怪しいものであるかを、良く理解しているからだ。
逆に歴史についてよく知らず、
勉強もしていない人間は、この手のことを自慢したがるようだ。
その辺の「怪しさ」というものを知らないために、
ムチャクチャなご先祖様の話であっても
全くそのおかしさに気付かない。
無知が故の、盲信である。

自分自身が、その手の話をかなり疑ってかかる性格なのだが、
幸いにして、我が家には
その手のご先祖様話というのは、全く存在していなかった。
これは、自分の先祖たちも自分と同じように、
この手の話の「怪しさ」を知り、
一切、後世に残さなかったためだろう。
自分のルーツを辿っていくと、兵庫県佐用町方面に行き着くので、
騙ろうと思えば「宮本武蔵の〜」とか、
「赤松一族の〜」なんていう話も、
できないこともないのだろうが、
懸命にもうちのご先祖たちは、
そういう話をしなかったようである。

先ほど、「存在していなかった」と書いた。
過去形である。
では、現在は存在しているというのか。

ここ何日か、婆さんの葬式について書いてきたが、
その際、親戚連中が集まった中でこういう話が出た。

「死んだ爺さん(婆さんの旦那)の兄貴が、
 戦艦長門に乗っていた」

戦国武将とか、源平の合戦なんていう話に比べたら、
随分と身近な話である。
ご先祖様、というには少々時代が近すぎる。
続柄で考えてみても、爺さんの兄になるのだから
自分にとっては大叔父ということになる。
その大叔父が、戦艦長門に乗務していたという。

この「爺さんが○○に乗っていた」というのも、
先に書いたようなご先祖様自慢の1つである。
例えば、航空機などに乗っていた場合や、
有名な軍艦に乗っていた場合などは、充分に自慢の対象になる。
「爺さんが大和に乗っていた」とか、
「爺さんが零戦に乗っていた」なんていうのは、
かなり自慢げに語られるものである。
戦国武将とか、源平の合戦と違い、
時代が近い分だけリアリティがある。
なんといっても、2つ3つ自分より上の世代なだけなのだ。
その世代なら、現在でも生きている人間はいる。
今回亡くなったうちの婆さんなども、
その世代の人間の1人である。
奇しくも、婆さんにとっては義理の兄にあたる人間が、
戦艦長門の砲撃手の1人であったという。
うちの母親にとっても、伯父さんであったはずで、
そういう話は当然、知っていたはずである。
しかし、婆さんにしても母親にしても、
そういう話は一切、自分たちにはしなかった。
やはり女性であるだけに、軍艦に乗っていたという話も
特に大げさに受け取らなかったのかも知れない。
早い話、大したことではないと思っていたのだろう。
しかし、自分は歴史を知っている。
戦艦長門が、どういう船だったのかを知っている。
戦艦長門は世界の7大戦艦の1つ、ビッグ7と呼ばれ、
帝国海軍の旗艦を勤めた船である。

戦艦長門が完成したのは、大正9年(1920年)のことだ。
当時としては世界最大の41㎝砲を装備した、
世界最初の軍艦である。
当時の戦艦としては高速の26.5ノットの速力を持っていた。
(比較するために戦艦大和のデータを挙げれば、
 主砲は46㎝砲、速力は27ノットである。
 数値的には劣っているように見えるが、
 大和が就役したのが、長門の20年後であることを考えると、
 当時、いかに優秀な船であったかがわかるだろう)
世界の軍事史、軍艦史を語る上では、外すことの出来ない船だ。
完成後に連合艦隊旗艦となり、
以降、大和型戦艦が完成するまでは長く旗艦を勤めた。
(太平洋戦争中、「大和」「武蔵」の大和型戦艦は、
 軍内部でも極秘扱いされていたため、
 一般庶民たちはその存在を知らず、
 「長門」が、主力艦、旗艦として人気を誇っていた)

だが、太平洋戦争が始まると、
海戦の主力は戦艦ではなく、
航空機動部隊を擁する航空母艦へとシフトしていった。
すでに大鑑巨砲主義の時代は終わりを迎えていたのだ。
よく「大和」「武蔵」が、
遅れてきた戦艦、悲劇の戦艦扱いされるが、
「長門」もまた、同じ運命を背負っていたのである。
長く連合艦隊の旗艦として、海軍のシンボルであり続け、
「大和」「武蔵」が完成してからも、
それに次ぐ主力艦として扱われていたが、
時代的に活躍の場はほとんど無く、
1944年、横須賀港に到着、
以降は燃料・物資の不足により外洋に出ることもなくなり、
警備艦として終戦を迎えた。
連合艦隊の戦艦として、唯一終戦まで生き残った船となった。

終戦後、アメリカに接収された長門は、
1946年、ビキニ環礁で実施された原爆実験、
「クロスロード作戦」の標的艦とされる。
原子爆弾2発を受けて浸水、それでも海上に浮かび続けていたが、
4日後の夜、誰も気付かないうちに沈没し、姿を消した。
現在では、ビキニ環礁の海底で眠っている。

この長門に乗っていたのが、幸いしたのかも知れない。
爺さんの兄貴は戦争で命を落とす事なく終戦を迎え、
その後、天寿を全うした。
連合艦隊のほとんどの軍艦が
撃沈してしまっていることを考えると、
終戦まで無事であった長門に乗れたことは、
幸運であったというしかない。

そういうわけで、自分にもご先祖自慢のタネが1つ、
できたことになる。
爺さんではなく、爺さんの兄貴というのが
やや筋違いな気がしなくもないのだが、
なに、戦国武将や源平の合戦に比べれば
連合艦隊旗艦の砲撃手というのは、真実味がある。

「そういう話」を聞かれたときには、
せいぜい自慢することにしよう。

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