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植物 歴史

ヒマワリ

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先日、たつのの町を自転車で走っていると、
道路脇の畑に、小さなヒマワリが咲いていた。

「小さなヒマワリ」と書くと、微妙な違和感がある。

自分が小学生のころ、理科の授業の一環で、
ヒマワリを栽培したことがあったのだが、
その時のヒマワリは、自分の背丈よりも高く、
自分の顔よりも大きい花をつけていた。
葉も大きく、茎も太い。
小学生のころの自分が抱いた「ヒマワリ」のイメージは、
「大きい」であった。
それに比べてみると、先日見たヒマワリは、
背丈こそ自分を上回っているものの、
咲いている花のサイズは小さく、
周りの花びらをコミで見ても、自分の掌ほどしか無い。
確かに他の花と比べれば、花は大きいのだが、
自分のイメージしている「ヒマワリ」からすれば、
随分と貧相に見えてしまう。

実は、小学校の理科の実験以外でも、
一度、ヒマワリを育てたことがある。
やはり小学生のころだったのだが、
家の花壇にヒマワリのタネを植えて、育ててみたのである。
その際、自分のヒマワリの横に
母親もヒマワリのタネを植えていた。
自分の植えたタネは、
小学校で育てたヒマワリから採種したもので、
ごく一般的なヒマワリであったが、
母親の植えたヒマワリは、花屋でタネを購入してきたもので、
一般的なものではなかった。
花がひと回りほど小さく、色も随分赤味を帯びていた。
母親が言うには、ちょっと変わった種のヒマワリだそうで、
詳しい名前は失念してしまったが、
「〜〜ヒマワリ」という名前であったことは覚えている。
かくして2種類のヒマワリはぐんぐんと育ち、
夏になると、それぞれに花を咲かせた。
自分の植えたヒマワリは、
学校で育てたときよりもやや小振りだった。
やはり買ってきたタネと、自分で採種したタネでは
育ち方が違うんだなと思ったものだ。
自分のヒマワリの横に並んでいた母親のヒマワリは、
いまいち育ちの悪かった自分のヒマワリよりも、
さらに一段と小型であった。
葉も小さく、茎も細い。
花の色は赤味の強いオレンジ色で、
自分の植えた普通のヒマワリに比べて、
4分の1ほどの大きさの花を咲かせた。
先日、町で見かけた「小さなヒマワリ」は、
色こそ違うものの、これを同じような大きさのヒマワリだった。

ヒマワリは、キク科ヒマワリ属に属する一年生草本である。
高さ3mほどに成長し、夏に大きな花を咲かせる。
パッと見た感じ、巨大な花が1つあるように見えるが、
実際には小さな花が寄り集まって出来ている。
外輪の黄色い花びらをつけた花を「舌状花」、
中央の花びらの無い花を「筒状花」と呼ぶ。
太陽を追いかけているように見えることから、
「日廻り」が転じて「ヒマワリ」になったといわれているが、
実際に太陽を追っているように見えるのは、
ヒマワリは「陽のあたらない」場所の方が、
早く成長するためである。
つまり、日陰になると成長し、
日が当たると成長が止まる(遅くなる)ということだ。
そのときに出来る成長速度の差が、
ヒマワリを動かしており、
結果的に花が太陽の方を向く、ということらしい。
また、種子の実ったヒマワリは
頭を垂れるように下を向くが、
これは重さのため、ということの他にも
タネを陽に当てすぎないためではないか?とも言われている。
「ヒマワリ」の名前の通り、
太陽の影響を受けやすい花なのである。

ヒマワリの原産地は、北アメリカである。
北アメリカにすむ原住民たちは、紀元前3000年ごろから
ヒマワリを栽培しており、そのタネを収穫していた。
現在でも採油目的のために、ヒマワリの栽培は行なわれているが、
当時のヒマワリはタネを食料とするために
栽培されていたようである。
原住民たちはヒマワリのタネを粉末化し、
お菓子やお粥、パンなどに加工していたという記録もある。
また、タネだけでなくヒマワリの茎も
乾燥させた後に、建材として利用したり、
タネにしても、食料以外にも薬として使われたり、
油を採ることも行なわれていたようである。
15世紀ごろ、中南米で栄えたインカ帝国では、
ヒマワリが太陽に似ているため、
「太陽の神」として、あるいは「国の花」として尊重されていた。
寺院などにヒマワリの彫刻を刻んだり、
神殿に仕える僧侶たちが、
黄金のヒマワリの紋章を身につけたりと、
その恭しいまでの扱われ方が伺える。

15世紀後半から16世紀に起こった新大陸の発見によって、
ヒマワリはスペインへと持ち込まれることになる。
一説によれば、コロンブスがヒマワリを発見したという話も
あるようだが、さすがにこれは眉唾物だろう。
スペインに伝わったヒマワリは、
どういうわけか100年近く国外に持ち出される事なく、
17世紀に入ってようやく、
他のヨーロッパ諸国へ広がっていった。
ヨーロッパでは、概ね観賞用、
あるいは採油用として育てられていたが、
ロシアに持ち込まれた後は、食用としても用いられるようになる。
というのも、当時のロシア正教会では
40日間食品制限を受ける「大斎」が行なわれており、
ほとんどの油脂食品が食べられなかった。
そんな状況の中で持ち込まれたヒマワリのタネは、
この制限に引っかからない食物であった。
採油できるほどに、油を含んでいるヒマワリのタネは、
油に飢えたロシア人たちにとっては、
とてつもなく「ウマいもの」に思えたに違いない。

その後、ロシアから中国、中国から日本へと
ヒマワリは伝えられた。
日本に伝わったのは、元禄時代(1688〜1704年)と
されている。
事実だとすれば、かの有名な赤穂事件(忠臣蔵事件)と
ほぼ同時期に日本へとやってきたことになる。
日本では「丈菊(じょうぎく)」と呼ばれた。
1丈は10尺、1尺は約30㎝ほどになるので、
3mほどの「菊」という意味だろう。
ヒマワリはキク科の植物なので、
「菊」という捉え方をしたのは、正鵠を射ていた。
しかし、わりとすぐに「ヒマワリ」という名前がつけられた。
太陽の方を向いているという性質が、
人々の心をとらえたのだろう。
この他にも「日輪草」や「日車」などという名前もつけられた。
ほとんどの名前で「日」の字が使われている辺りに、
ヒマワリと太陽の繋がりが感じられる。

タネが食用としても用いられることは、先に書いた通りだが、
直接食べるというのは意外に少なく、
大方は採油して、「ヒマワリ油」として食用とされる。
ヒマワリのタネは、その重量比で30〜45%ほどの
油を含んでいる。
2009年、2010年における「ヒマワリ油」の生産量は、
パーム油、大豆油、菜種油についで第4位となっている。
ヒマワリが、食用油を得る上で如何に重要な植物かがわかる。
スーパーなどの油売り場でも、
数種類はヒマワリ油を置いているのが常である。

さて、冒頭に家の花壇でヒマワリを栽培した話を書いたが、
我が家でヒマワリを栽培したのは、その一度だけで、
以降は全く栽培することがなかった。
理由は簡単で、なんといっても大きく育ちすぎるので、
他の花とのバランスが悪く、日陰を作ってしまい、
うちの花壇には、合わなかったのだ。
婆さんの畑があったので、
そちらで栽培することも出来たのだが、
婆さんが作る花というのは、仏壇にあげる「菊」だけで、
それ以外の花は、全く作ろうとしなかった。
あくまでも「食べる」ことのみに、
照準を合わせている婆さんだった。
ヒマワリのタネが食べられることは
婆さんも知っていた筈だが、
そんなもん作って、わざわざ食べんでも
他にウマいものをつくればいいと思っていたようだ。

地球上に、花は数多存在しているが、
ヒマワリほど「太陽」をイメージさせる花は、
他に存在しない。
夏の盛りに、能天気なほどに大きく、
丸く、底抜けなほどに明るく咲くヒマワリは、
まさに「太陽の花」と呼ぶにふさわしい。

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