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歴史

室津という町~その1 遊女発祥の地

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例えばの話になる。

長野県の海に行ってきました、といえば馬鹿にされる。

奈良県の海はきれいでした、といっても同じだ。

理由は簡単、そこ(長野県・奈良県)に海がないからである。

自分の住んでいる「たつの市」も、かつては海のない町であった。

それが10年ほど前に、海ができた。

陸地が沈んだとか、海の水位が上がったとか、

そういう天変地異が起こったわけではない。

2005年に市町村合併が行なわれ、龍野市がたつの市に編入された。

この際、揖保郡新宮町、揖保郡揖保川町、揖保郡御津町という、

龍野市に隣接していた町と合併したことで、

たつの市は、海までひとつながりの町になったのである。

いわゆる平成の大合併だ。

当時、自分も実家を出て、となりの揖保川町民となり、

一人暮らしをしていたが、この合併によって再びたつの市民に戻ることになった。

たつの市になったことにより、市内に港ができた。

両方とも小さな漁港である。

旧御津町域にあった、岩見港と室津港である。

今回はこの「室津」という港町についてとりあげる。

現在の室津は、寂れた田舎漁港である。

どんなに好意的に見ても、栄えている風には見えない。

藻振鼻と呼ばれる半島が、港を抱き込む、天然の良港だが、

平地は少なく、少ない平地にみっちりと民家が詰まっている。

道は狭く、町の中を車で走るのは、非常に困難だ。

ほとんどの道が、車1台分ほどの幅しかなく、対向車がくればとたんに、

にっちもさっちもいかなくなりそうだ。

もっとも住んでいる人たちは慣れたもので、そんな狭い町中を、

車ですいすいと走り抜ける。

そんなせせこましく、寂れた室津だが、実は驚くほど長い歴史がある。

室津の港が開かれたのは、今から2000年も前のことである。

神武天皇の東征の際、それを先導した者が室津の港を開いたといわれている。

これが真実なのかどうかはわからないが、

もし仮に、これが本当だったとすれば、

室津の歴史は日本建国より古いということになる。

奈良時代初期に編まれた「播磨国風土記」には、

「この泊、風を防ぐこと室のごとし、故に因りて名をなす」

と書かれている。

最初は「室津」ではなく、ただ「室」か「室の泊」と呼ばれていたらしい。

これが後に変じ、「室のような津」ということで、「室津」となった。

奈良時代の室津は、行基によって「摂播五泊」のひとつとされた。

海上交通・陸上交通の要衝であった。

「室津千軒」などと呼ばれたのも、このころからである。

室津の繁栄は、長く続くことになる。

平安時代になると、この室津の町には、水夫を相手にした遊郭が立ち並ぶ。

そう、室津はこの「遊女」の発祥の地である、とされている。

いつくらいから、室津の遊女が発生したのかは不明だが、

木曾義仲の愛妾「友君」が、室津において伝説的な遊女になったとあるので、

鎌倉時代には、すでに遊郭が立ち並んでいたはずだ。

恐らく、奈良時代から平安時代にかけて、発生したものと思われる。

時代的に考えてみれば、遣唐使船によって中国に渡った人間が、

中国の遊郭の情報を持ち帰り、日本国内で再現したものだろう。

「播州皿屋敷」の主人公、「お菊」の妹達も室津で遊女をしていたとある。

お菊自身も、衣笠元信の妾であったということだから、

もともとは室津の遊郭で、遊女をしていた可能性も高い。

戦国時代、この室津を支配していたのが浦上村宗である。

この村宗の孫・宗影と、御着の城主の娘(一説には

黒田一族の娘ともいわれる)との婚礼が執り行われた。

3月3日、桃の節句のことであった。

ところがその婚礼の夜、龍野城主・赤松秀政の軍勢が、室津に攻め入ってきた。

若い夫婦も、刀や槍をとって戦ったが、あえなく討ち死にし、

室津城は赤松氏の手に落ちた。

この時、婚礼の夜に命を落とした若い夫婦を悼み、

室津の町では3月3日にひな祭りを行わなくなった。

そのかわりに、8月1日にひな祭りを行うようになった。

これを「八朔のひな祭り」と呼び、現在でも続けられている。

やがて織田勢力の先鋒として、羽柴秀吉が播磨入りする。

彼は主君である織田信長に、この室津で作られた革製品を、大量に送っている。

いつごろから、室津で革製品が作られていたのかは、明らかではないが、

これは現代まで残っており、現在ではランドセルなどを作っている。

やがて秀吉が天下をとった後、ヨーロッパへ派遣されていた

天正少年使節団が帰朝、その際に室津に滞在している。

教科書でもおなじみの、伊東マンショや千々石ミゲルである。

彼らに会うために、キリシタン大名たちが室津を訪れたという記録がある。

江戸時代になると、西国の大名たちの参勤交代の際に、

海路から陸路へと移る、いわば上陸地点として、機能した。

ここから山陽道へ移り、江戸までを陸路で向かうのである。

その当時、大名の泊まる「本陣」と呼ばれる宿が、室津には6軒あった。

姫路にさえ、ひとつしかなかったことを考えると、

いかに室津が繁栄していたかがわかる。

大名の参勤交代の他、長崎にやってきたオランダ人や、

朝鮮から派遣された朝鮮通信使など、国際色豊かな人々が室津を訪れた。

このオランダ人の中には、シーボルトなど、歴史上有名な人物もいた。

やがて幕末を迎えると、国内での西洋型船舶の建造を急ぐ風潮が起こる。

これに後押しされるようにして、当時の室津では「速鳥丸」をはじめとする、

何隻かの西洋型船舶を建造している。

明治時代に入り、参勤交代がなくなると、室津は急激に寂れていくことになる。

文化、商業は衰退していき、漁業とわずかな産業のみが残った。

室津には、司馬遼太郎、谷崎潤一郎、竹久夢二など、多くの文化人が訪れている。

しかし彼らが訪れた時には、すでに室津はその盛期の勢いを失っていた。

かつての文化、商業の跡を見て、彼らは何を思ったのだろうか?

今回は、室津という町を、歴史的な観点から書いてみた。

次回は、文化的な点に注目して書いてみたい。

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