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桜吹雪

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いわゆる「時代劇」には、一種の流行のようなものがある。

なんのことか、わからない人もいるだろう。

最近の時代劇は、一昔前の時代劇と違って、時代考証を大切にする。

もちろんかつての時代劇が、時代考証を行なっていなかったわけではないが、

現在のものに比べると、かなりいい加減なものであった。

そのころの時代劇は、歴史的な整合性などよりも、

物語的なダイナミズムを重要視していた。

故に水戸黄門は、日本を漫遊しながら8時40分にはチャンバラし、

暴れん坊将軍は、お忍びで江戸の町をうろつき回った後に、

8時40分にはチャンバラをしていた。

銭形平次も、謎解きをしながら、8時40分には投げ銭と十手で、

悪党共を懲らしめていた。

「三匹」も「長七郎」も、すべて8時40分には、チャンバラであった。

そんな中、これらとはちょっと違った、時代劇がある。

「遠山の金さん」だ。

「遠山の金さん」では、チャンバラが8時35分頃であった。

他の時代劇よりも、5分ほど早い。

これは他の時代劇と違って、チャンバラがクライマックスではなく、

その後のお白洲のシーンが、クライマックスであるからだ。

8時40分にはお白洲が始まり、8時45分には桜吹雪の彫物が披露される。

この10分前には、悪党共の前で

「この金さんの桜吹雪、散らせるもんなら散らしてみな!」

と、もろ肌脱ぎで啖呵を切っている。

これを踏まえた上での、お白洲での桜吹雪である。

これが登場すると、一気に事件は解決する。

もはや悪党共に、一言も反論させることも無い。

あっけにとられる悪党共を尻目に、次々と極刑を申し付けていく。

実にばっさりとした、解決シーンである。

たちまち悪党共は引き立てられていき、「これにて一件落着」となる。

「遠山の金さん」こと、遠山金四郎景元は実在の人物だ。

天保年間(1830年~1844年)に江戸の町奉行や、大目付を勤めた。

時代劇で見ている限りでは、江戸中期の物語のようだが、

実際は江戸末期に活躍した人物である。

安政2年(1855年)に61歳で死んでいる。

時代でいえば、すでに黒船が来航していた時期であり、

江戸幕府が消滅する直前に、亡くなったことになる。

彫物については、「桜吹雪」をはじめとして、

「右腕のみ」、「左腕に花模様」、「桜の花びら1枚」、

「背中に女の生首」、「全身くまなく」などなど、様々な説がある。

もちろん、これとは別に「彫物なんて無かった」という説もある。

遠山景元は若いころ、放蕩無頼の生活をしていた時期があり、

その来歴から彫物があるという説が生まれた。

もちろん、どれも噂に過ぎないので、実際には「彫物なんて無かった」説が

正しいのではないかと思われる。

当たり前の話であるが、遠山景元がそのお白洲で、

背中の彫物を披露したなどという話は、残っていない。

江戸時代の名奉行、といえば大岡忠相が有名である。

彼は様々な訴えについて、非常に鮮やかな手腕でこれらを解決、

その裁判は「大岡裁き」と呼ばれ、現代にも伝えられている。

もっとも、数ある「大岡裁き」のうち、大岡忠相が解決したものは、

全体のほんの一部で、その他のものは国内外の他の人物の功績を、

大岡忠相の名前に書き換えたものである。

いわば大岡忠相は、後の講談師などによって作られた、虚構のヒーローだ。

遠山金四郎景元の場合、「遠山裁き」のようなものは残っていない。

ではどうして遠山景元が、名奉行として名前を残すようになったのか?

それは時代がそうさせた、としか言いようがない。

彼が町奉行に就任した天保年間、すでに幕府経済は崩壊寸前であった。

社会は急速に貨幣経済へと移行していたのに、

幕府経済は相変わらずコメによって成り立っていた。

コメの価格が落ち込む中、幕府は窮していくことになる。

幕府は倹約することによって、この難局を乗り切ろうとし、

厳しい倹約令を出すことになる。

これを押し進めたのが、老中・水野忠邦。

いわゆる「天保の改革」である。

これは庶民にまで、厳しい倹約を押し付けた改革であり、

当然、庶民の間からは激しい反発があった。

そんな状況で、この厳しい倹約令に対し、反対を唱えたのが遠山景元であった。

そういう事情により、遠山景元は庶民派として、庶民からの人気を勝ち得た。

もっとも当時は、庶民の人気があったからといって、出世できるわけでもない。

当時の武士階級にとって、大衆人気というのは、それほど意味が無かった。

どうしても幕閣内での立場は弱くなり、

やがて景元は町奉行(北町奉行)を罷免され、大目付に任命される。

これは役職の上では、出世であり栄転である。

しかし当時の大目付は、実質的には閑職であり、現代でいう所の窓際族であった。

その後、政敵の失脚によって、再び町奉行(南町奉行)の座につく。

同一人物が、北と南の町奉行の座についたのは、非常に珍しいことであった。

嘉永5年(1852年)、南町奉行を辞した。

この翌年には、ペリーが黒船を率いて来日しているので、

その直前に一線から身を引いた格好だ。

幕末の激動に巻き込まれることも無く、明治維新を見る前に、その人生を終えた。

もし遠山景元がもう少し遅く生まれていたら、幕末史の中に、

その名前を残していたかもしれない。

そんな時代背景など全く感じさせず、「遠山の金さん」は毎回、

8時35分になるともろ肌を脱いで彫物を見せ、

8時40分には、お白洲に登場する。

そして8時45分には再び桜吹雪を披露して、

「これにて一件落着」と物語を締める。

一種の様式美である。

かつては大人気だった、「チャンバラ時代劇」も、今は全く作られない。

現代では、細かい所まで時代考証を突き詰めた、

「歴史的に正しい」ドラマが、数多く作られている。

もちろんこれはこれでいいのだが、やはり真面目であるだけに、

どうしても見ていると、疲れてしまうのも事実だ。

肩に力が入ってしまうのだ。

全ての時代劇の中に、そういうものがいくつかあるのならば、

それでいいのだが、全ての時代劇がそうなっては、面白くない。

やっぱり窮屈なのである。

今や「チャンバラ時代劇」は、ローカル局の再放送でしか見ることはできない。

とてもお寒い状況だ。

これから新しい「チャンバラ時代劇」が作られることは、あるのだろうか?

ファンとしては、首を長くして待ちたい。

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