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ブドウ

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時々、30〜40代の女性にむかって
「羊水が腐っている」などという発言をして、
問題を起こす政治家や芸能人がいる。
これは、一応「高齢出産」の危険性を表現している、
という風に捉えられることもあるが、
さすがにデリカシーに欠ける発言であろう。

ただ、女性にはやはり、
安全に出産できる「年代」というのはあるようで、
これを過ぎた年齢での出産には、
色々と問題が起こることも多い。
ただ、女性の社会進出が進み、働く女性が増えた現代では、
どうしても女性の初産年齢は高くなっている。
これが、少子化の大きな原因になっていることは間違いなく、
「少子化問題」を本質的に解決するためには、
日本の職業習慣、社会構造を大改革しなければならないだろう。

……。
初っ端から随分と社会的な話になったが、
ここで自分がいいたいことは、
「子孫を残せる期間は、有限である」ということだ。
これは何も人間だけに限った話ではなく、
人間以外の動物たち、さらには植物にもいえることである。

我が家の庭には、何本かの木が植えてあるのだが、
その中には「柿」のように、
現在でもしっかりと実をつけるものもあれば、
「梅」のように、花は咲くものの、実のつかないものもある。
ひょっとして、その梅は元々実がつかない品種なんじゃないの?
という風に思われるかも知れないが、
自分の記憶が確かならば、数十年前には、
小さいといえども、ちゃんと実を付けていた。
それが、いつのころからか、全く実がつかなくなった。
それどころか、春先に咲く花も、
年々、少なく小さくなってきているようだ。
これはどういうことなのか?
考えてみると、うちの庭に植わっている梅は、
かなりの老木である。
自分の生まれる前から生えていて、
引っ越しの際には、わざわざ植え替えをして
持ってきた木である。
「樹齢」という言葉があるが、
これが一体どれくらいになるのか、
誰も分からないほどに、年老いた木なのである。
さすがにそこまで歳をとってしまえば、
花が少なく、実を付けなくなったとしても、不思議ではない。
すでにこの老木は、春先に申し訳程度の花を咲かせるだけだが、
長年付き合って来た愛着からか、
これを伐り倒そうという気にはならない。

この老木と同じように、
庭の端に植わっているのが「ブドウ」である。
これは引っ越して来た後に、
苗木を買って来て植えたものだが、
地区の区画整理にあって、ブドウ棚を解体した際に
根元の所から伐採してしまった。
それ以降、切り倒した後の小さな切り株から、
毎年ニョロニョロと小さなツルが伸びてくる。
うちの庭では、すでに雑草の扱いになっているので、
鎌や剪定バサミで切ってしまうのだが、
それにもめげずに、毎年、ツルを伸ばしてくる。
すでにブドウ棚はないので、上方向に伸びることが出来ず、
地面を這うようにして横に伸びていくのだが、
すぐ道路脇の場所であるために、マメにカットしないと
道路へと伸び出すことになってしまう。
毎回、チョキチョキと切るのも手間なのだが、
不思議に根っこごと、
掘り起こしてしまおうという気にはならない。
やはりこの「ブドウ」も、
それなりに長い期間、庭にあったため、愛着が湧いているのだ。

「ブドウ」は、ブドウ科に属する、つる性の落葉低木である。
また、この木の果実をさして「ブドウ」と呼ぶことも多い。
野生のブドウ(ヤマブドウなど)は、雌雄異株であるが、
栽培種の場合は、ひとつの花に「おしべ」と「めしべ」があり、
1本の木で実をつけることが可能である。
中東北部、黒海とカスピ海に挟まれた
コーカサス地方が原産と考えられており、
紀元前3500年ごろには、
メソポタミア文明のシュメール人たちによって
栽培が始まっていた。
このころからワイン(ぶどう酒)の生産が始まっており、
メソポタミアや古代エジプトでは、
ワインは珍重されていたようである。
(メソポタミア文明の発達した
 チグリス・ユーフラテス川沿いや、
 エジプト文明の発達したナイル川沿いは、
 ブドウの栽培には適していないため、
 これらの文明圏では、
 先に書いたコーカサス地方で栽培されたブドウを輸入し、
 ワインを醸造していたようである。
 あるいは、醸造したワインを輸入していた可能性もある。
 恐らくは「オリーブオイル」の回でも触れた
 「アンフォラ」と呼ばれる陶製の容器に入れて
 運搬されていたのではないだろうか?)
紀元前1世紀ごろに、漢の武帝が河西侵出して以降、
多くの国使が西域諸国(トルキスタンから地中海沿岸に至る
西アジア地域)と交流し、
このころに西域の文化とともに中国に伝えられた。

日本に伝わったのは、
奈良時代から平安時代ごろのことだとされる。
718年、僧侶・行基が「法薬」であるブドウの栽培を
甲州・勝沼に伝えたとする説、
1186年、甲斐国勝沼の雨宮勘解由が山林で見つけたものを
栽培したという説、
または同じ雨宮勘解由が、中国から伝来した実生の木を、
挿し木で栽培して増やしたという説がある。
中国から伝来したという説が2つ、
国内で発見されたという説が1つである。
どちらが正しいのかは、はっきりとしないが、
奈良時代に行基がブドウ栽培を伝えたものの、定着せず野生化し、
それを後に雨宮勘解由が再興した、と見ることも出来る。
どちらにしても、日本におけるブドウ栽培に関しては、
甲州勝沼を発祥の地と見て間違いがないようだ。
ブドウは長らく、甲州勝沼のみによって栽培され、
明治時代以前は、甲州勝沼近辺の特産品として扱われて来た。
(甲州勝沼以外にも、いくつかブドウの産地はあったようだが、
 それほど有名になるほどではなかったようだ)
明治時代になると、欧米から新品種が導入されるようになり、
当初はワイン製造を目的として、
ヨーロッパ種のブドウが栽培されたが、
乾燥地を好むヨーロッパ種のブドウは栽培が難しく、
次第に日本の気候にあったアメリカ種ブドウへと
切り替わっていった。
このアメリカ種ブドウには独特の香りがあり、
ワイン醸造には向いていなかったため、
日本ではワイン醸造の文化は発達せず、
ブドウを生食のみで消費することとなった。
世界的にいえば、ブドウの総生産量の70%以上が
ワイン醸造に使用されているのに対し、
日本では、実に90%以上が生食されている。

ブドウは、木に近い部分から熟していくため、
房の先端は甘味が少ない。
皮の紫色はアントシアニンによるものであり、
実の甘味成分はブドウ糖と果糖によるものである。
このブドウ糖だが、その名前の由来には諸説あり、
ブドウにたくさん含まれていたからという説、
化学式の形状がブドウの房に似ていたからという説がある。
どちらもブドウがらみではあるが、
その由来が全く違うのが面白い。
ブドウの場合、種が小さいので、
食べていてもあまり問題にはならないが、
この種からは油をとることが出来る。
このブドウの種から採れた油を
「グレープシードオイル」という。

かつては、我が家の庭で
派手に枝を伸ばしていたブドウだが、
これをしっかりと収穫できたのは、
意外とわずかな期間であった。
品種は「デラウェア」という、
現在でも良く食べられている品種だったが、
店で売っている「デラウェア」のように、
ジベレリンを使った処理をしていなかったので、
小さい粒の1つ1つに、しっかりと種が入っており、
食べるのは、なかなか面倒であった。
やがて、小さなコガネムシが大量発生して
葉を食い荒らすようになり、実がつかなくなってしまった。
そうこうしているうちに、地区の区画整理が始まり、
それに引っかかったブドウ棚は解体、
ブドウの木も伐採されることになった。

それから20年近くたったが、
未だにブドウの木は枯れてしまうことなく、
雑草の扱いを受けながらも、庭の端に植わっている。
その凄まじい生命力には、
ただただ感嘆させられるのみである。

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