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海難~その2

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前回、海難事故の例として、タイタニック号事故とドニャ・パス号事故を

取り上げた。

どちらの事故も、死者を1000人以上も出した、

海難事故史上に残るものであった。

しかし、タイタニック号事故も、ドニャ・パス号事故も、

「平時」に起きた事故である。

「戦時」に起きた事故は、それらとは少し赴きが違う。

それは、非常時の中で起こった事故だからである。

今回は、この「戦時」における海難事故について、書いていく。

人類が経験した最大の戦争が、第2次世界大戦である。

「戦時」の海難事故も、この戦争中のものが圧倒的に多い。

その中でも商船を狙った、商船破壊は頻々と行なわれた。

この商船破壊は戦闘行為ではなく、戦力の無い一般船舶を狙ったという点で、

全く一方的な暴力行為であった。

一般的に、商船破壊は「海難」として扱われることはない。

この戦争の犠牲ともいえる商船破壊を、今回は「海難」として、

その例を挙げていく。

もっとも多くの犠牲者を出した商船破壊は、ドイツ商船ゲストロフ号が

ソ連潜水艦によって撃沈された事件である。

1941年、ドイツはソ連との不可侵条約を一方的に破棄し、

ソ連国内に進軍した。

バルト3国をはじめとする、ソ連西部はたちまちドイツの手に落ちた。

だが、1943年にはソ連は勢いを盛り返し、反攻に転じる。

1944年にはその勢いは圧倒的なものになり、ドイツ軍は占領地からの

撤退を始めた。

そんな中、東部バルト海沿岸の、ダンチヒ、グディニア、ピラウを中心とした

一部地域が、完全に敵勢力の中で孤立してしまった。

ここには近隣より、ドイツ系民間人と、ゲルマン系民族が、

ソ連軍の報復を恐れ、大量に逃げ込んできていた。

陸路が、ソ連軍によって完全封鎖されている以上、撤退には海路を使うしか無い。

1945年1月、海路による大規模撤退作戦、「ハンニバル作戦」が実行された。

この撤退作戦には、その地に停泊していた、ありとあらゆる商船が使われた。

その中の1隻が、グストロフ号である。

総トン数25848t、定員1500名ほどのこの船に、実に6000名以上の

人間を積み込み、グストロフ号は出発した。

定員をはるかにオーバーしている点では、前回のドニャ・パス号と同じだが

今回のケースは戦時下の非常時であり、

その地に留まることは、それこそ「死」を意味していた。

そういう意味で、この過積載を責めることはできない。

ところが出航したグストロフ号は、たちまちのうちに小舟に囲まれ、

動けなくなってしまう。

これらはグストロフ号に助けを求める、避難民たちであった。

船長はこれを見捨てることができず、縄梯子をおろし収容できるだけ収容した。

そして限界まで避難民を収容したグストロフ号は、グディニア港を出港した。

このまま1日、無事に航行できれば、ドイツ本国に逃げ込める、

……はずであった。

出航から間もなく、グストロフ号はソ連の潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没する。

長らく、グストロフ号沈没による犠牲者数は、はっきりしなかったが、

最終的に発表された犠牲者数は、9331名であった。

タイタニック号の4倍、ドニャ・パス号の2倍の犠牲者数である。

「戦時」というものの異常さが、よくわかる。

この時期、バルト海での商船破壊による、犠牲者数はおびただしい数になった。

グストロフ号の事件からわずか11日後、同じく「ハンニバル作戦」を

遂行中であった、客船シュトベイン号が潜水艦の攻撃によって沈没。

3150名の犠牲者が出ている。

さらに4月16日、同じように避難民を満載して撤退作戦を遂行していた、

貨物船ゴヤ号が、ソ連潜水艦の攻撃によって撃沈。

ゴヤ号は5230tの船であったが、

実に7000名近い避難民を乗せての、航行だった。

恐らく船内は人で溢れかえっていたことだろう。

ゴヤ号の沈没では、6666名もの犠牲者が出た。

これは先のグストロフ号に継ぐ、史上2番目の犠牲者数である。

この時期のバルト海が、いかに危険な海域であったかがわかる。

そしてそれ以上に戦争というものの、悲惨さが浮き彫りになっている。

「戦時」の海難事故(軍事行動による商船破壊)を見ていくと、

その人的被害の多かったものは、ドイツと日本の商船である。

先のグストロフ号の9331名の犠牲者数を筆頭として、

15位の日本の久川丸の犠牲者数、2287名まで、

全ての事故でタイタニック号をはるかに越える、死者が出ていたのだ。

この15の事故のうち、実に14の事故がドイツと日本の商船だった。

この事実は、ほとんど知られていない。

さて、ここまで挙げてきたのは「戦時」における、「単船」での被害者数だ。

「単船」ではなく「船団」の場合、海難事故最悪はどうなるのか?

実はこれは、我々のよく知っている事件である。

その海難事故は、1281年、九州佐賀の伊万里湾で起こった。

そう、いわゆる元寇である。

長く知られていた話では、1274年の第1回侵攻(文永の役)と、

1281年の第2回侵攻(弘安の役)ともに、台風によって

元軍は全滅したことになっていた。

しかし、最近の研究では、文永の役ではそのような事故は起こらず、

普通に引き上げていったというのが、定説になっている。

つまり、史上最悪の大海難が起こったのは、弘安の役でのことだった。

1281年、元軍は日本を屈服させるために、第2回目の侵攻を開始する。

総兵力12万5千人、船の乗組員7万7千人、あわせて20万人の大兵団だ。

船の総数は大小取り混ぜて、4400隻。

まさに海を覆いつくす勢いであっただろう。

元軍は博多湾に上陸、日本武士団と激しい戦いを繰り広げた。

日本武士団の激しい反攻にあい、元軍は一旦船に引き上げる。

そしてそのまま九州北部を遊弋、そのうちに天候が悪化してきたので、

これを避けるためにほぼ全軍が、伊万里湾内に停泊した。

8月23日。

大暴風雨が九州一帯を襲った。

時期的に見て、台風だろう。

これにより、伊万里湾内は地獄と化した。

猛烈な風、巨大な波、吹き降りの豪雨。

恐らく船同士がぶつかり、次々に破壊されていったのだろう。

海に投げ出された兵士たちも、ある者は溺れ、

ある者は船同士の衝突に巻き込まれ命を落とした。

翌朝、台風一過の伊万里湾内は、船の残骸と死体で埋め尽くされていた。

この後、無事に本国に戻れた者は、わずか3万人であったというから、

おおよそ17万人ほどが、この弘安の役で命を落としたことになる。

その中で、この暴風雨で命を落とした者が、10万人以上いたという。

歴史の授業で、わずか2行か3行で語られる「元寇」。

そこにはこれだけの数の犠牲者が、隠されていたのである。

ここまで、「平時」の海難と「戦時」の海難についてみてきた。

次回は、海難の中でも少し変わったものを、紹介する。

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